≡☆ 行田歴史散策 ☆≡
 

行田市内には戦国武将達ゆかりの事蹟が数多く残されているの。また、嘗ては「足袋の行田か、行田の足袋か、忍の行田は足袋でもつ」とまで謳われて隆盛した足袋産業の名残りを足袋蔵が今に伝え、一方で、わらべ人形通りに見られるような、新しいまちづくりも行われているの。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

《 後編 》

8.高源寺 こうげんじ 13:16着 13:21発

臨済宗円覚寺派 天真山高源寺 御本尊:阿弥陀如来
往古、行田市は忍藩として隆盛を誇っていたが、豊臣秀吉の小田原城攻めの時、天正18年(1590)、石田三成の軍勢により、水攻めを受けた。忍城佐間口の守将正木丹波守利英公は奮戦し、城も破られることはなかったが、小田原城での籠城に参戦していた城主・成田氏長公が破れたため、止む無く忍城は開城した。この戦で、丹波守は無常を悟り、水攻め彼我戦歿者の霊を弔わんと発心し、武士を捨て、佐間の地に高源寺を建立し、開山(初代住職)に守天昌意和尚を迎え、一心に菩提を弔い、翌天正19年(1591)に没した。このことは和田竜著『のぼうの城』に活写されている。第20世住職 岩佐宗貴

御城下に入り、最初に訪ねたのがこの高源寺。説明にもあるように、忍城水攻めの攻防戦では佐間口の守将として500人余の兵を従えて奮戦したと云う正木丹波守利英ですが、忍城開城後は主君・成田氏長の烏山城移封には従わず、この地に留まり、敵味方の区別無く、攻防戦で命を落とした人々の菩提を弔うために、この高源寺を建立したと伝えられているの。没年齢までは分かりませんが、利英は忍城開城の翌年、天正19年(1591)に没するの。老臣と記すものもあり、齢(よわい)を重ねた利英の胸には無常心が去来していたのかも知れないわね。

山門をくぐり抜けた左手にはその利英(法名:傑宗道英)のお墓があるのですが、墓塔も御覧のように磨滅していて、無常観を漂わせているの。境内の一角には昭和57年(1982)に建立された忍城水攻彼我戦歿者慰霊碑もあり、5/8に行われる花まつりでは、正木丹波守利英供養会や忍城水攻め彼我戦没者供養会が行われるなど、高源寺では今尚鎮魂の祈りが捧げられているの。

9.佐間天神社 さまてんじんしゃ 13:22着 13:25発

【佐間天神社縁起】  佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を茲眼山安養院の守護神として天神社を勧請した。今から500年前のことである。享保5年(1720)12月、京都の唯一神道、吉田殿より正一位天満天神の神格を与えられた。その後、文化10年(1800)8月25日、本殿が再建された。本殿に安置される天神座像は春日の作と伝えられている。また、境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると400年とされている。佐間天神社には学問の神様、菅原道真公が祭神として祀られている。

以前は茲眼山安養院が守護神であったが、その様子は今でも白山社、伊奈利社、厳島、明神・・・等の合祀社が多く、両部神道の名残を留めている。神門は安政3年(1850)の大火で類焼したが、ここで火が留まった為、火防の門と呼ばれた。明治22年(1889)、佐間村・成田町・行田町が合併し忍町となり、妙音寺にあった温知学校を廃止し、天神社社務所に佐間学校が開校した。正式には忍学校第三教場と云われた。大正4年(1915)3月、行田尋常小学校第三校舎(現在の新町会館)が新築されるまで、ここに存在したのである。(以下省略)

高源寺とは道を隔ててあるのがこの佐間天神社で、祭神は学問の神さまとして知られる菅原道真よ。でも、この天神社を創建したのは成田親泰で、忍城築城時には守護神として勧請したの。学問の神さまが守護神なんてヘンよね。実は、菅原道真は今でこそ学問の神さまの扱いですが、嘗ては平将門や崇徳上皇と共に日本三大祟り神として恐れられていたの。詳しいことは既に他の頁で触れていますのでここでは省略しますが、成田氏は藤原氏の出とされるの。そうなると、もうお分かりよね。自らのルーツを知る親泰はその祟りを恐れ、社を建てて荒ぶる神となった道真公の神慮を安らかたらしめんとしたと云うわけ。

親泰にしてみれば、鄭重にお祀り致しております故、怨念の嵐を吹き寄せ、ゆめゆめ我が城に雷などを落としめされぬように願いまする−と云ったところですが、荒ぶる神も敵に回すから恐いのであって、味方にしてしまえばこれに秀る守護神は無いわよね。

行田市指定文化財 欅群(けやきぐん) 昭和39年(1964)1月31日指定
天神社は、享保5年(1720)12月、京都の吉田家より神位を与えられ、正一位天満天神と称するようになった、との記録がある行田市佐間地区の鎮守です。祭神は学問の神様として信仰されている菅原道真です。その天神社境内に9本の巨木が群生するこの欅群は、いずれも樹齢400年以上と推定される古木群です。樹高は高いもので30m、目通り幹回は最大のもので5.0mを計ります。落雷のため、幹に空洞があるものもありますが、樹勢は旺盛で、枝張りもよく繁茂していて、神域の風致を保っています。また、秋には美しい紅葉が見られます。平成23年(2011) 行田市教育委員会

説明では触れられていませんが、この天神社の樹叢も、嘗てはある重要な役目を担っていたの。紹介した【佐間天神社縁起】の冒頭に谷郷・春日社の名がありますが、実は春日社の樹叢に隠れて大きな樋が造られていたの。沼や湿地を天然の要害とした忍城ですが、その大樋を閉めると沼や堀は水源を失い、水の流入が無くなってしまうの。同じく、この佐間口にも大樋が設けられていて、開けば沼や堀の水が流失する仕組みになっていたの。要は、春日社側を閉じ、天神社側の樋を開ければ忍城を取り囲む沼や堀の水は干上がってしまうと云うわけ。戦乱の世にあっては誰にも知られたくない忍城の機密事項よね。春日社、天神社の両樹叢にはその軍事上の最重要施設を隠す役目があったの。更に、天神社では天神坊の建物の存在が樋の存在を隠すのに都合よく、加えて、この佐間口には重臣の正木丹波守利英の屋敷もあり、それとなく守護していたと云うわけ。一見すると、何の関係も無いと思える事蹟が、裏では皆しっかりと繋がっているのね。

因みに、谷郷の春日社には鹿島神宮の武甕槌命(たけみかづちのみこと)・香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねみこと)&妃神の4柱が祀られるのですが、いずれも藤原氏とは関わりの深い神さまよね。中でも天児屋根命は藤原氏(&中臣氏)の祖神とされ、創建年代こそ不詳ですが、成田氏が氏神として勧請したものと考えられているの。忍城の生命線とも云える樋を守るためには至当の選択肢よね。

社務所の傍らには大きな公孫樹の木がありますが、その傍らに建てられていたのが左掲の佐間学校跡碑。替わって境内の裏手には御覧のような墓塔が建ち並ぶの。傍らには慈眼山安養院跡の碑があるように、安養院の歴代住持の墓所になっているの。安養院は昔は皿尾村にあったのですが、寛延2年(1749)、火災のために現在地に移されてきたのだとか。嘗ては大随求菩薩を本尊とし、新義真言宗で下忍村遍照院末の寺院だったの。


次の清善寺に向かう途中で道の両脇に橋の欄干があるのを見つけたの。橋があるからと云って、川の流れがあるわけでも無くて、その痕跡すら無いの。石柱には新兵衛橋とあり、昭和7年(1932)の架設であることが記されていましたが、当時は未だ多くの水路が市内をめぐっていたのかも知れないわね。案内板があるわけでもないので気づかずに通り過ぎてしまう可能性大ですが、嘗ての忍の地勢を窺い知ることの出来る貴重な歴史遺産かも知れないわね。普通なら、通行に邪魔だから−と撤去されてしまうところをそうされずに残されていることに加え、宝珠は損傷の修復もなされているの。ひとえに行田市民の良識のなせる業よね。

10.清善寺 せいぜんじ 13:32着 13:47発

【清善寺】  清善寺は、曹洞宗成田龍淵寺(熊谷市)の末寺で、平田山清善寺と称し、本尊は釈迦如来三尊仏である。当寺は永享12年(1440)、当地の豪族・成田刑部少輔顯忠(ぎょうぶしょうゆうあきただ)の草創と云われている。顯忠は仏道に帰依し、清善斎全中と号し、その館は平田精舎と云われていた。永正16年(1519)に没したが、時の城主・成田氏15代親泰(ちかやす)は、その死を悼み、一寺を建立して平田山清善寺と称した。その後、成田氏16代長康(ながやす)によって、天文2年(1533)に再興され、翌年成田龍淵寺5世宗佐和尚を迎え開山とした。昭和57年(1982)3月

顯忠は忍城を築城した成田親泰の叔父に当たるの。その顯忠ですが、63歳の時に出家して清善斎全中と号し、清善寺の前身となる堂宇を建立、深田を埋め立てて館を造ったの。当時、この清善寺が建つ辺りは平田新田と呼ばれていたの。その平田新田に建つ館の意から平田殿と呼ばれ、仏道に帰依した顯忠が禁を犯さず学道に精進したことから平田精舎とも呼ばれるようになったの。顯忠は永正16年(1519)に齢90歳の大往生を遂げるのですが、雄功院信圃全忠と諡されているの。それにしても90歳とは、当時としては驚嘆に値する超長寿よね。それは偏に顯忠が仏道に精進したが故のものかも知れないけど、顯忠をそこまで駆り立てたものは一体何だったのかしらね。

11.行田八幡神社 ぎょうだはちまんじんじゃ 13:52着 13:54発

【行田八幡神社由緒】  当神社は、源頼義・義家が奥州討伐のためこの地に滞陣した折、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。当初、佐間村田中に鎮座、俗に田中(でんちゅう)八幡と称していましたが、天文年中(1532-1555)に現在の地に移されました。この時、忍城主・成田下総守長泰公は深く当社を崇敬し、社殿を修補して城下総鎮守と致しました。このことから城主八幡、また、社殿の向きから西向き八幡の名があります。応神天皇・神功皇后を主祭神とし、比売神・大物主神・素戔嗚尊を配祀神として御祀りしています。現在の社殿は、皇紀2,650年を記念し造営され、平成元年(1989)11月に竣功しました。

応神天皇は誉田別尊(ほむだわけのみこと)のことで、この応神天皇こそが八幡大菩薩なの。替わって配祀神の一柱・比売神ですが、ここでは一人称の扱いですが、本当は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三神のことなの。中でも容姿端麗を以て知られているのが市杵島姫命で、元々は「斎(いつ)き祀る島の巫女」の意なの。この行田八幡神社に限らず、八幡神社では応神天皇・神功皇后・比売神の三神をセットでお祀りすることが多いのですが、中でも突出したエピソードを持つのが応神天皇のお母さんでもある神功皇后なの。But 何故か、お父さんの仲哀天皇だけが蚊帳の外なの。不思議でしょ?

鎌倉歴史散策の 鶴岡八幡宮編 では、神功皇后の逸話を含めて八幡神のことについて詳しく触れていますので、興味のある方はお立ち寄り下さいね、CM でした。

延命長寿 病魔退散 厄災消除 【なで桃のいわれ】
古来、桃は中国に於いては不老長寿の果実として、また日本に於いても魔除けの果実として知られています。それは古事記の中にある次の神話に由来しています。伊邪那岐命が黄泉国(あの世)から黄泉醜女(よもつしこめ)ら悪鬼に追われ、逃げ還る途中、やっとの思いで葦原中国(この世)との境に辿り着いた時、坂の上に大きな桃の木を見つけました。伊邪那岐命はその実を三つ取り、悪鬼らにめがけ投げつけました。すると遂に追手らは引き返し、難を逃れることが出来ました。

伊邪那岐命は桃の実に「あなたは私を助けてくれた神の実です。どうかこの世の全ての人が悩み苦しむ時も同様に助けて下さい」と云って、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)と云う名前をお与えになりました。以来、桃の実は病魔や厄災を退治してくれる象徴として尊重されるようになりました。ここにお祀りした「なで桃」を願いを込めてお撫でになり、桃に宿る神力を頂きましょう。

拝殿の左手では桃の絵が描かれた絵馬が数珠つなぎになっていたので何かしら−と気になったのですが、それがこの「なで桃」だったの。

撫で牛は天神社の境内などで見掛けることもあるけど、撫で桃と云うのは珍しいわよね。桃と云えば思い出されるのが桃の節句ですが、古来、中国でも桃は「五行の精を有し、邪鬼を圧伏して百鬼を制す」【荊楚歳時記】とあるように、桃の実には魔除けや邪気を祓う霊力が宿ると考えられ、桃の花を浮かべた桃花酒を飲み、厄や万病を避けたと云われるの。実は、この桃花酒こそが白酒のルーツなの。その白酒ですが、イコール甘酒と思っていらっしゃる方が多いのですが、白酒は立派なお酒ですので「す〜こし白酒めされたか、あ〜かいお顔の右大臣」となるわけで、子供は飲んじゃいけないの。お話が脱線してしまいましたが、「なで桃」の更に左手には末社が建ち並んでいるの。

目の神社
御祭神:味鋤高彦根命 − 眼病平癒の神として厚い信仰がある。
八坂社
総町御輿:江戸時代の宝暦9年(1759)に百貫御輿として初代の総町御輿が寄進され、現在の御輿は昭和5年(1930)に造り直された三代目で、総欅造り。風格は市内随一。
三峯社
御祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊 − 国生みの神で、延命長寿の御神徳がある。
恵比寿神社
御祭神:事代主神 − 商売繁昌の神さま(忍城下七福神)
大国主神社
御祭神:大国主神 − 福徳の神さま・縁結びの神さま(忍城下七福神)

他にも、火防の神・軻遇突智命を祀る愛宕神社、稲荷神こと宇迦之御魂神を祀る瘡守稲荷社や、御井神・水波能売神・水分神が祀られる水神社があるの。それぞれの神さまがどんな御神徳をもたらして下さるのかはお出掛けの際に御確認下さいね。

12.わらべ人形通り わらべにんぎょうどおり 13:55着 14:00発

市役所前から大長寺辺りにかけての通りでは商店街が軒を連ね、沿道には銅板造形作家・赤川政由氏の作品「童の記憶」39基が並び立てられているの。電線類の地中化整備事業に伴い設置される歩道の設備機器(トランスなど)に、行田の街並みにふさわしい装飾を施そうと云うことで始められたのがこの童人形の設置で、平成10年(1998)に設置された後も、平成16年(2004)には里親制度が設けられ、平成18年(2006)には童たち夫々に創作童話も作られたの。通りを歩けば、忘れかけていた思い出と共に、子供の頃のあなたに良く似た童人形にきっと出会えるはずよ。作品の一つ一つは古代蓮タウンの わらべ人形通り に詳しく掲載されていますので御参照下さいね。

国登録有形文化財【十万石ふくさや行田本店店舗】  この店舗は、呉服商・山田清兵衛商店の11代山田清兵衛(伊三郎)によって、明治16年(1883)7月16日に棟上されたもので、行田では珍しい江戸様式の店蔵です。昭和27年(1952)より足袋蔵となり、昭和44年(1969)に曳屋されて十万石の店舗となりました。その後なまこ壁が設けられ、平成24年(2012)の修理で白壁となりました。行田市を代表する重厚な店蔵で、国登録有形文化財に登録されています。平成24年(2012)3月 行田市教育委員会

わらべ人形通りを歩いているときに蔵造りの建物を見つけて目を留めたのがこの 十万石ふくさや さんで、それも本店だったの。ξ^_^ξはテレビ埼玉でのCMしか知りませんが、棟方志功の画と共に「うまい!うますぎる!十万石幔頭」のキャッチフレーズは、一度ならず耳にされた方も多いのでは無いかしら。But ξ^_^ξはその十万石ふくさやさんの本店がこの行田にあるとは知らずにいたの。これまた余談ですが、幔頭の字にご注意下さいね。普通は饅頭ですが、十万石ふくさやさんでは敢えて幔頭としているの。その理由は同社HPを御参照下さいね(笑)。

13.大長寺 だいちょうじ 14:01着 14:05発

忍川に架かる栄橋の袂で伽藍を構えているのがこの大長寺。忍城主・阿部豊後守忠秋の菩提寺と知り、多少の閑雅を期待して訪ねてみたのですが、すべからくが新しいものになっていたの。忠秋が寛文7年(1667)に建立したと云う毘沙門堂※も老朽化して昭和37年(1962)に取り壊されてしまい、嘗ては「大長寺の大仏」と親しまれたと云う露座の大仏も、昭和19年(1944)に戦時供出を強いられてしまったの。寺史を遡れば、開創は元亀天正年間(1570-1592)と云うのですから、戦国〜安土桃山時代のことね、京都知恩院第29世岌善上人が奥州巡行の際に当地の百姓・原口与右衛門宅にしばし滞留して当寺を開山、その後、空蓮社西道比丘なる僧が中興したとされているの。
※残念ながら未確認ですが、毘沙門堂は移築され、現在は奥日光の金精峠にその面影を留めているとのこと。

市指定文化財【 大長寺の芭蕉句碑 】  平成5年(1993)2月25日指定
この句碑は、元は桜町の小沼の池付近にあったもので、『忍名所圖會』にも記述が見られます。区画整理の際に、ここに移されたと伝えられています。碑表には「古池や蛙飛こむ水の音 芭蕉翁」と句が刻まれ、碑裏には多少庵秋瓜謹書とあります。安永から寛政にかけて江戸で活躍した俳人・多少庵秋瓜との関連が伺える句碑です。緑泥岩製で、高さ174cm、幅74cm、厚さ5cmです。平成5年(1993)3月 行田市教育委員会

山門右手の植え込みには紹介した芭蕉句碑が建てられているの。更に回り込むと鎮座するのが御覧の大仏さま。あれ〜ヘンよね、さっきは戦時供出してしまった−と書いてあったじゃないの。実は、この大仏さまは平成7年(1995)に再建されたものなの。その大仏さまの前には二体のお地蔵さまが脇侍しているの。それが極楽往生なで地蔵尊と福寿長命なで地蔵尊で、お地蔵さまとスキンシップをはかることでその功徳が得られると云うわけ。お地蔵さまにはそれぞれの御利益が記されていますので、お出掛けの際に祈念しながらトライしてみて下さいね。《大仏諸元》 身丈:3.6m 蓮台:1.2m 総高:7.4m 重量:6.7t

14.長野口 ながのくち 14:07着 14:09発

長野口は、忍城の城下町行田の東北隅に位置し、長野口御門が設けられて、忍城の北東の守りの拠点になっていました。戦国時代の天正18年(1590)に石田三成らの軍勢が忍城を攻めた際に、ここで激しい攻防戦が行われたことが『成田記』、『忍城戦記』、『関八州古戦録』などに記されていますが、これらが記されたのは、合戦から100年以上も後で、その内容をそのまま史実であると考えることはできません。その当時、長野口のある下町(しもまち)は愛宕神社の門前町として市が立ち、忍城開城後には遠く京都の宮津からも商人が訪れていました。忍川には船着き場が設けられ、城下町行田の玄関口として人の行き来が盛んであったようです。

江戸時代の享保13年(1728)に見沼代用水が開削されると、やがて船運が盛んになり、長野口は船着き場として繁栄してきます。幕末には、長野口御門に番所や高札場が設けられるほどの賑わいを見せるようになりました。しかしながら、明治維新後に長野口御門は取り壊され、船運も鉄道の発達と共に衰退して、嘗ての賑わいは失われてしまいました。平成23年(2011) 行田市教育委員会
小沼橋の袂にある小さな公園には、長野口御門跡と船着き場跡の碑が建てられているの。見渡してみたところで、盛時の賑わい今何処−の世界ですが、この長野口は忍城の北東の守りを固める要所として、また、物資往来の拠点として賑わいを見せていたと云うの。

【船着き場跡】  下町が忍城に対して下町で、星川の船着き場として栄えたことが400年前の記録に既にある。幕末には番所が出来、高札場まで出来る賑わいで、江戸から水路があり、明治19年(1886)、館林に行啓の折の御荷物がここで荷揚げされた記録もある。昭和53年(1978)6月 行田ライオンズクラブ
【長野口御門跡】  行田町の北東の固めとしての長野口御門は船着き場としての繁栄と共に重要さを増し、高札場や番所も出来、人の出入に賑った。御門の北は小沼堂ともう一つの島で、一帯は太古は沼であり、菖蒲の名所であった。昭和54年(1979)3月 行田ライオンズクラブ 協賛・関田英一

15.蓮華寺 れんげじ 14:14着 14:18発

當山は鎌倉時代武州埼玉郡小見村に在りて真言宗如意珠山薬王寺と稱せり 文永11年(1274)佐渡配流の宗祖日蓮大聖人へ幕府の赦免状を携えたる高足日朗上人此の寺に宿泊せし折 住職はその教義法談に感じ直ちに法華に帰依し弟子となる 第二世日教上人これなり 而して寺号を妙法山蓮華寺と改称す 元亀年間忍城主成田長泰の命に依り忍城鎮守として此の地に移す 中興の祖第十世日深上人妙法弘通に勤め寺門興隆に励み■線大いに栄えたり 近世中興第廿二世日渾上人昭和18年(1943)相州本山龍口寺に晋山せる時迄三十有余年檀信徒の教化寺門の経営に盡粹し 殊に大正15年(1926)総代川端清助・今泉浜五郎・安田利兵衛等と計り 老朽せる本堂を新築し寺観を一新せり

近年に至り総代世話人と諮り檀信徒の協力を得て本堂・鬼子母神堂等の屋根替えを完成し本堂廻廊の取替え諸堂庫裏の補修を終了するに當り佛祖三寶慈恩報謝のため茲に一碑を建立するものなり 昭和43年(1968)11月吉祥日 第廿三世 田中本晃誌 総代世話人一同 青木謙明書
本堂の左手に建つ石碑に記されていた【縁起】を紹介しましたが、解読不能な文字があり、伏せ字とさせて頂きましたので御容赦下さいね。冒頭にある武州埼玉郡小見村は現在の行田市小見のことね。現在地に移されてきたのは元亀年間(1570-1573)のことで、当時の忍城主・成田長泰の命に依るとのことですが、巷では成田氏長の命に依るとの噂が頻りよ。

16.足袋蔵 たびぐら 14:19着 14:30発

【足袋蔵と行田市の近代化遺産】  行田市は江戸時代中頃から足袋づくりが大変盛んで、最盛期の昭和13年(1938)には年間8,500万足、全国シェアの約8割の足袋を生産する”日本一の足袋のまち”として繁栄していました。市の中心部には、足袋蔵と呼ばれる足袋の商品倉庫を中心に、その栄華を伝える洋風足袋工場、北側〜西側だけを蔵造りにした行田独特の店蔵や住宅など、足袋産業関連の近代化遺産が数多く残されています。行田市では、こうした近代化遺産の保存が進められており、武蔵野銀行行田支店店舗、十万石ふくさや行田本店店舗、大澤家住宅旧文庫蔵などが国登録有形文化財に登録されています。また、忠次郎蔵(そば店)、和牛懐石「彩々亭」、足袋蔵まちづくりミュージアム、足袋とくらしの博物館、藍染め体験工房「牧禎舎」、足袋蔵ギャラリー門、行田窯などさまざまな形での再活用も行われています。是非、蔵めぐりまち歩きを楽しんで下さい。行田市教育委員会

嘗ては「足袋の行田か、行田の足袋か 忍の行田は足袋でもつ」と謳われて、最盛期には全国の足袋生産の8割を生産していたのだそうよ。そのルーツを辿ると、300年以上も前の貞享年間(1684-1688)に亀屋さんと云う店が足袋を専門につくっていたことに始まるとされているのですが、それが天保年間(1830-1844)には27軒になり、明治20年代(1887-1896)になるとミシンが登場し、明治43年(1910)には行田電灯株式会社が設立されて発電を行うようになると、そのミシンが電動に替わってゆくの。それはまさに足袋製造の産業革命よね。そうして行田は名実共に「日本一の足袋のまち」になるの。

行田で足袋が多く作られたのは、行田周辺では藍染めした糸で織った布(青縞)が多く作られていて、安価で大量に素材を入手出来たことも背景にあるみたいね。明治時代になると家の中で履く足袋の需要が増大し、大消費地・東京を控えて大いに賑わいを見せたと云うわけ。生活のスタイルが変わり、足袋の需要が少なくなったとは云え、今でも足袋生産日本一の地位は変わらないの。街中を歩けば、多くの足袋蔵が目に留まり、「足袋のまち行田」の面影を追体験することが出来るの。ここでは、蓮華寺通りから武蔵野銀行のある辺りまでをプチ蔵めぐり。

足袋蔵歴史のまち・蓮華寺通り
この通り沿いは、かつて蓮華寺町と呼ばれた蓮華寺の門前町です。江戸時代に忍城主・阿部正武が小見から蓮華寺を移し、松平家が忍城主になると、通りの両側に武家屋敷が造成されて、蓮華寺町は誕生しました。明治時代以降は足袋産業が進出し、昭和初期には足袋蔵や足袋職人長屋が軒を連ねるようになりました。今でもその頃の面影が感じられる通りです。平成23年(2011) 行田市教育委員会

あらあら、今度は阿部正武の名が出て来たわ。巷では成田氏長の噂もあり、当の蓮華寺では成田長泰だと云うし、ここに来て行田市教育委員会では阿部正武の名を挙げるし−で、蓮華寺を小見から現在地に移したのは本当は誰なのかしらね。それとも、二転三転した後に、現在地を得たと云うこと?But それは無さそうよね。

足袋蔵歴史のまち・時田足袋蔵
この間口8間、奥行3間の土蔵は「かるた足袋」「桜都足袋」などの商標で知られた時田啓左衛門商店が昭和4年(1929)に棟上した足袋専用倉庫です。時田啓左衛門商店は、明治28年(1895)に創業し、山形・宮城・山梨県を中心に販路を伸ばして成功を収め、この大型の足袋蔵を建設しました。昭和初期の行田足袋産業全盛期の面影を伝える近代化遺産と云えます。平成23年(2011) 行田市教育委員会

国登録有形文化財 旧小川忠次郎商店店舗及び主屋 平成16年(2004)7月23日登録
この店蔵は、足袋の原料を商っていた小川忠次郎商店の店舗及び主屋として昭和4年(1929)頃に完成した(大正14年(1925)11月7日棟上)、行田の足袋産業隆盛期を象徴する近代化遺産です。店舗部分は切妻造、土蔵造の二階建、主屋部分は寄棟造、二階建で、北面と西面の壁を漆喰で塗り込めた、北風を意識した行田特有の防火的な造りとなっています。内部一階は店舗部分の土間を持つミセから主屋部分のナカノマ、オクへと縦一列に並べる間取りで、二階に格式の高い座敷を設けています。尚、こうした構造は他の行田の店蔵にも共通しています。行田商工会議所・行田市教育委員会

足袋蔵歴史のまち・牧禎舎
」の商標で知られた牧禎商店が、創業時の昭和15年(1940)に建設した木造二階建ての事務所兼住宅と工場です。事務所兼住宅は、落ち着いた佇まいの住宅建築で、原形を良く留めています。現在はNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークによって、藍染体験の出来る大人の寺子屋「牧禎舎」として再活用されています。平成22年(2010)3月 行田市教育委員会

T字路の突き当たりにあるこの土蔵は「かるた足袋」などの商標で知られた時田啓左衛門商店の足袋蔵です。残念ながら建築年代は不明ですが、行田では珍しい、表通りに面した袖蔵形式の土蔵で、この奥にも明治36年(1903)に建てられた足袋蔵が運なっています。左側の昭和15-16年(1940-41)頃に建てられた住宅と共に、行田の足袋産業全盛期の面影を残す貴重な建物群と云えます。NPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワーク・埼玉県NPO活動促進助成事業

【牧野本店】  大正13年(1924)頃に建てられた豪勢な店蔵、大正11年(1922)棟上の木造洋風工場、明治〜大正期の足袋蔵等土蔵3棟が残る牧野本店は、全盛期の行田の足袋商店の様子を伝える貴重な建物群です。現在工場部分を、NPO法人“ぎょうだ足袋蔵ネットワーク”が「足袋とくらしの博物館」として土・日・祝日に公開しており、足袋の製造実演や行田足袋の歴史の展示が見学できます。NPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワーク・埼玉県NPO活動促進助成事業

牧野本店の建物を右に回り込むと正面に愛宕神社が鎮座しますが、その左手に「足袋とくらしの博物館」の入口があるの。残念ながら未体験で終えていますので詳しい御案内は出来ませんが、足袋づくりの行程を見ることが出来るの。また、見るだけじゃなくて、自分でも作ってみたいの−と云う方には製作の体験教室(予約制)もあるみたいよ。詳しくは ぎょうだ足袋蔵ネットワーク を御参照下さいね。

国登録有形文化財 武蔵野銀行行田支店店舗 平成17年(2005)11月10日登録
この建物は、忍貯金銀行の店舗として昭和9年(1934)6月28日に竣工しています。彫りの深い近代復興式の鉄筋コンクリート造2階建ての本格的銀行建築で、冬に北西から強い風が吹く行田の気候・風土を反映して西側には出入口が無く、窓も東側に比べて極端に少ない造りになっています。外壁は当時流行のスクラッチタイル貼りで、本格的な歯飾りの軒蛇腹、繊細な装飾、格子の入った縦長の窓、その上に付けられたレリーフの入った円形の羽目板などが特徴的です。

この建物は昭和19年(1944)に行田足袋元売販売株式会社へ売却され、戦後足袋会館として使われた後、昭和44年(1969)より武蔵野銀行行田支店となりました。埼玉県内で数少ない戦前の鉄筋コンクリート造の本格的銀行建築として、貴重な建物と云えます。行田市教育委員会

店舗は、足袋蔵と云うわけではないのですが、銀行建築を語る上で貴重な建物と云うことで掲載してみたの。But 一時期ですが、足袋の元売り会社へ売却されたこともあると云うことですので、その間は一部が足袋蔵として使用されたかも知れないわね。傍らには高札場跡の碑も建つの。

「浮き城の町・行田」モニュメントについて
天正18年(1590)豊臣方の武将・石田三成の水攻めにも落城せず、”忍の浮城”と天下に名を馳せた名城を基本構成とし、正面より忍城御三階櫓を表し、側面よりは中央の玉から平和と商人の魂を、下段の波から力強さと豊かな行田市の発展を表しております。行田市中心商店街事業協同組合


武蔵野銀行とは道を挟んで埼玉りそな銀行がありますが、その角地に置かれていたのがこのモニュメント。銀行を背にするあたりは、やはり発展にはお金の後盾が必要(笑)と云うことよね。

忍城新城下町「浮き城のまち・行田」  忍城御三階櫓の復元を機に、行田の市街地では城下町の香りのするまちづくりが進められてきました。浮き城の径、街路灯、御影石の歩道、あきんど館の建設、電線地中化、モニュメントの設置と新城下町の風情が現れました。忍城の城下町として栄えたこの通りは、16世紀にはもう市が立ち、賑わいを見せていました。徳川家康をはじめとする多くの大名、文人、商人がここを行き交っていたのです。どうぞ、皆様も楽しみながらこの街をそぞろ歩いて下さい。

17.諏訪神社 すわじんじゃ 14:35着 14:41発

御祭神:建御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと) 例祭:9月27日
当社の鎮座したのは、82代後鳥羽天皇の建久(1190年頃)の昔、忍三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃−と云い伝えられている。また、『持田村誌』には、成田親泰(ちかやす)が延徳3年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永16年(1639)に城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、併せて正保2年(1645)に当社の本殿を造営、寛文12年(1672)、拝殿を新たに建立した。現在の社殿は昭和36年(1961)の造営である。

文政6年(1823)、松平忠堯(ただたか)は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目蓮社を勧請した。これらは明治6年(1873)の城郭取り壊しの際、当社境内に移される。また、城内各所にあった小祠、科斗社(しなどしゃ)・八幡社・久伊豆社・荒神社・春道稲荷大明神・神明社・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の9社も同時に当社へ配祀された。諏訪神社・東照宮社務所

二の丸稲荷社 御祭神:宇賀御霊神(うがのみたまのかみ) 例祭:3月初午の日
忍城二の丸に祀ってあった。明治6年(1873)、諏訪神社境内に遷座。宇賀御霊神は稲荷大神(いなりのおおかみ)とも云い、食物の神であり、万物生成を司る神である。一説には、永禄年間(1560年頃)、忍城主の成田長泰(ながやす)が見返曲輪(みかえりくるわ:後の二の丸曲輪)内に、若いときに殺生した狐の親子を祀ったものとも云われている。奉納・創業百周年記念 平成18年(2006)12月吉日 大野建設株式会社

ここでξ^_^ξが気になったのが、成田長泰が若い頃に殺生した狐の親子を祀った云々のお話なの。
ちょっと長くなりますが、例によって昔話風にアレンジしてお届けしてみますね。

とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども、永禄9年(1566)のことじゃと云うから、今から450年以上も前のことじゃ。忍の城主をしとったんは成田下総守長泰(ながやす)公じゃが、家督を嫡男の氏長(うじなが)さまに譲ると、自らは仏門に入り二の丸に隠棲されたそうじゃ。そうしてしばらくは穏やかな日々が続いておったんじゃが、ある夜から不思議なことが起きるようになってのお、入道殿が寝間に入り眠りに落ちると、夜中に家鳴りが始まり、入道殿も夢うつつに大きな石で押さえつけられて息苦しくて息も絶え絶えになってしもうてのお、寝汗もびっしょりとかく有様じゃったそうな。

夜中になると誰か儂の寝所に忍び込んで悪さする奴がおるんじゃろうて、とっ捕まえて成敗してくれようぞ−そう思うた入道殿は寝ずの番をたてることにしたんじゃが、果たして家鳴りが始まる頃になると、番人は皆してうとうとと眠り込んでしまう始末でのお。そこで今度は名のある高僧や修験者にも祈祷を頼んでみたんじゃが、一向に収まる気配が無くてのお。物の怪のなせる業とあっては、万策尽きてほとほと困り果てておった入道殿じゃが、その話を耳にした氏長さまは家臣に良策を問うてみたそうじゃ。

果たして家臣の中に「源頼政公の鵺(ぬえ)退治の話もありますれば、弓矢にて化け物を射落とすのが最良の策かと心得まする。しからば、弓の腕に覚えのある者に力添え願うのが至当かと」そう申す者があってのお。そこで氏長さまは家中でも弓術で知られた三沢浄斉なる者を呼び出すと一部始終を話されたそうじゃ。浄斉は齢85に届こうかという老齢ながら「それがしには将軍家弓術御指南役より直々に授かり申した秘伝の術が御座いまする。いまだ一度も試したことは御座いませぬが、入道殿の一大事とあらば、その物の怪とやらに必ずや一矢報いてみせましょうぞ」そう申されたそうじゃ。

そうして身支度を調えた浄斉が入道殿の寝所の次の間に控え、家中より選び抜かれた屈強な者どもが寝所の四方を固めて寝ずの番をして物の怪が現われるのを待ったそうじゃ。そうして子の刻を迎えた頃のことじゃった。寝間から入道殿の寝息が漏れ伝わってきたかと思うと、どこからともなく微風が棚引いてきて行燈の灯を消すと、辺りを闇の中に包み込んでしまったそうじゃ。やがて家鳴りが始まると、入道殿の喘ぎ苦しむ声が聞こえて来たそうじゃ。満を持して待っておった浄斉はすかさず弓をしならせ、秘伝の術を込めた矢を邪気めがけて打ち放ったそうじゃ。果たしてその矢は物の怪の躯を射貫いたとみえ、暗闇を走り抜ける気配を感じた警護の者がすかさず飛びかかり、闇の中に手応えを感じたものの、間一髪のところで逃げられてしもうたそうじゃ。

二の丸中に響きわたる断末魔に皆して入道殿の寝所に駆け付けたんじゃが、幸いにして誰ひとり怪我する者もおらんでのお。それから「きゃつめは手負いの疵を負うておるはずじゃ、血の跡がどこぞに残されていよう」と皆して明かりを灯しながら二の丸中を捜してみたんじゃが、結局どこにも見つからんでのお、おおかた天狗の仕業であろう−と云うことで一時は収まったんじゃが、翌朝のことじゃったそうな。曲輪の門番が申し出て来て云うには「夕べ、子の刻の頃かと思いますが、私の夢の中に一匹の狐が現れて申すには−我はこの曲輪に古くから住する狐である。入道に妻子を殺され、長年敵討ちの機会を狙っておったんじゃが果たせなんだ。入道も老いたが我もまた年老いてしまったようじゃのお、弓矢で射貫かれ、力尽くで組まれたところをやっとの思いで逃げ出して来たところじゃ。其方は長年我に恵みをくれたが故、その恩返しにこれなる玉を授けようぞ−そう云われたところで目を覚ますと、果たして枕元にはこのような紅い玉がありました」と、氏長さまの前にその玉を差し出したそうじゃ。

その話を伝え聞いた入道殿は昔のことを思い出して大いに悔いたそうじゃ。入道殿が未だ血気盛んな頃じゃったそうな。曲輪にある藪の中に親子狐の姿を見とがめて、弓の腕試しに−とばかりに射殺してしまったそうじゃ。物の怪の正体はあのときのつがいの牡狐であったか。儂も何と無益な殺生をしたものよのお−と、その所業を悔いた入道殿は、曲輪内に祠を建てると、お稲荷さんとして祀ったそうじゃ。それが、この二の丸稲荷の始まりだと云うことじゃ。門番が授かったと云う紅い玉じゃが、夜になると薄紅色の光を闇に放ちながら浮かび上がるさまは、それはそれは美しい光景じゃったそうな。とんと、むか〜し昔のお話じゃけんども。

記述に際しては 行田歴史モバイル さんの頁を参照させて頂きました。
この場にて御礼申し上げます。m(_ _)m

多度社(たどしゃ)・一目蓮社(いちもくれんしゃ)
御祭神:天津彦根神(あまつひこねのかみ)・天目一固神(あめのまひとつねのかみ)
現在の場所より西北に200m程の所に文政6年(1823)松平忠堯(ただたか)は伊勢国多度山より城内に勧請。当時の境内は300坪程あり、例祭( 5月5日 )には神楽殿で「能」が演じられたと云う。忍藩は忍宝正(おしほうしょう)の名があり、宝正流の能が盛んだった。明治6年(1873)現在地に遷座。祈雨や海上の風難、水火の災いに霊験あるとされる。奉納・創業百周年記念 平成18年(2006)12月吉日 大野建設株式会社

諏訪神社に引き続き、多度社・一目蓮社の合祀社がありますが、耳慣れない社名よね。多度社は三重県桑名郡多度町多度にある多度大社を総社とする社で、祭神の天津彦根神は風の神さま、雨乞いの神さまであると共に、祖神としても祀られるの。そのルーツは産土神(うぶすながみ)にあるようね。うぶは産なり則ち土なり−と云うことで、生まれた土地に宿る神さまを指し、氏神さま、あるいは村人達の共通の守護神としても祀られるようになるのですが、そこから農業や漁業、産業開発の神徳も備えるようになったと云うわけ。

一方の一目蓮社ですが、御本家では、多度大社の別宮に祀られているの。祭神の天目一固神は天津彦根神の子とされ、山の神であり、鍛冶の神さまでもあるの。また、台風などの風水害からの守護神でもあるの。実は、多度大社の背後に聳える多度山には昔、一つ目の龍が住んでいたと云う伝承があり、その一つ目の龍を祀ったのが多度大社の始まりだとする噂もあるの。その一つ目龍こそが天目一固神で、本来の多度大社の主祭神だと云うわけ。それはさておき、忠堯が二柱にどんな御神徳を期待して勧請したのかはξ^_^ξには分かりませんが、多方面から忍城を守護して貰う為にはふさわしい神格かも知れないわね。

そして、境内の最奥部で威容を放つのが次に紹介する東照宮で、祭神は云うまでも無く東照神君家康公よね。明治7年(1874)にこの諏訪神社境内に遷座して来たと云うのですが、諏訪神社にしたら軒先を貸した積もりでいたのに、今ではすっかり母屋を乗っ取られてしまった感があるわね。

東照宮 御祭神:徳川家康命・松平忠明命・八幡大神 例祭:5月17日
当社は家康公の娘・亀姫が父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝え、忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に社殿を造営して肖像を安置したことに始まる。以来、藩主・藩士崇敬の社となった。その後、移封の都度遷座され、慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦の折、大坂蔵屋敷内の東照宮を当社に合祀した。社領は郡山当時より百石を受け継ぎ、明治維新まで続く。その地は埼玉古墳群の辺りであったと伝えられている。明治4年(1871)、藩主東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えるが、旧藩士等相計り、同7年(1874)に下荒井の地より、本丸の一部である諏訪郭内の諏訪神社境内一隅に本殿を移し、同33年(1900)に藩祖・松平忠明公を配祀した。現在の社殿は昭和5年(1930)の造営である。諏訪神社・東照宮社務所

18.忍城址 おしじょうし 14:44着 15:01発

残念ながら嘗ての忍城の建物は明治期の解体命令を受けて破却されてしまいましたが、本丸跡には左掲の行田市郷土博物館が開設され、御三階櫓や時鐘を始め、堀や門などが復元されているの。But 景観復元ですので、浮城と呼ばれた頃の姿を再現した訳ではないのですが、それでも往時の姿を彷彿とさせてくれるの。その忍城址で中心的な存在の郷土博物館で先ずは俄勉強を。残念ながら館内は撮影禁止ですので詳しい御案内は出来ませんが、行田の歴史の特色が古代・中世・近世に分かれて、また、足袋製造について常設展示されているの。後程紹介しますが、復元された御三階櫓も実は博物館の一部で、最上階は市内が見渡せる展望台になっているの。

と、その前に。ξ^_^ξが最初に訪ねたとき(2015.08.12)には博物館の玄関入口脇で 忍城おもてなし甲冑隊 の、のぼうさまこと成田長親と酒巻靭負のお二方による紙芝居があったの。題名も「のぼうの城」ならぬ「忍伝説」で、石田三成の水攻めにも屈することなく、忍城を守り通した武将達の活躍をユーモアたっぷりに語ってくれたの。後日知ったのですが、偶然にも、そのときの一部始終を YouTube にアップされている方がいらっしゃったの。是非、御覧下さいね。

他力本願で恐縮ですが、映像は「エリにゃん改めエリ」さまの H27.08.12 忍城おもてなし甲冑隊11:00〜のぼう様、酒巻靱負殿による忍伝説(紙芝居)披露! がそれです。YouTube には他にも忍城おもてなし甲冑隊メンバーに依る演舞などの映像がいっぱいアップされていますので探してみて下さいね。

【忍城の由来】  忍城は文明10年(1478)頃、成田顕泰により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのか−と恐れられ、「忍の浮城」とも称されたと云う。寛永16年(1639)、時の老中・阿部忠秋が入城し、忍城大改築に着手、孫の正武(まさたけ)の代に至り、忍城御三階櫓の建設、城門土塀の修築などが完成し、面目を一新したという。文政6年(1823)、伊勢の桑名から松平忠堯(ただたか)が移封し、忠誠(ただざね)のとき、明治維新を迎えた。市では、維新後取り壊されていた城郭の面影を再建し、永く後世に伝えることになった。平成3年(1991)3月 行田市

博物館の見学を終えたところで忍城址をひとめぐりしてみることにしたの。
ここからはその景観を纏めてアップしておきますね。

鐘楼に掛かる時鐘は文政6年(1823)の忍・桑名・白河の三藩に領地替えが命ぜられた際に、伊勢桑名の松平忠堯(ただたか)が持ち込んだものとされているの。その忠堯は既に紹介済みの天祥寺にある旧藩主松平家の墓に眠りますが、移封の際には桑名からその天祥寺や東照宮も移転させているの。この後、伝・進修館表門を紹介しますが、その進修館も元々は桑名にあった藩校で、この忍に来てから再興しているの。ξ^_^ξ達の移転&引越とは大違いで、藩主の移封は藩の財政をも逼迫させかねない大事業だったわけね。

ξ^_^ξはこの忍城址、と云うよりも郷土博物館に来て初めて映画「のぼうの城」のことを知ったのですが、野村萬斎さん演ずる「のぼうさま」こと成田長親のもと、家臣や郎党のみならず、多くの町民や農民達までもが一緒に城に立て籠もり、石田三成率いる二万余の軍勢に対抗する姿は不思議な光景でもあるわよね。【忍城戦記】も城代・成田長親の下、家臣や一族郎党500余人に、雑兵・町人・百姓・法師・神官・女子など3,000余人がこれに加わり城を死守せんとしたと記しているの。幸いにも戦闘に不慣れな人達が多くの血を流すことも無く、小田原城降伏に併せて忍城も開城となり、新しい時代を迎えることになるのですが、領民が皆して団結し忍城、否、忍領を守ろうとしたのは史実如何を越えてドラマチックよね。

ドラマチックと云えば、映画「のぼうの城」では湖面に浮かべた小舟の上から丸墓山古墳に向かい、三成側の陣営に田楽踊りを演じてみせる場面よね。まさに、狂言師の野村萬斎さんでなければ出来ないシーンで、はまり役よね。一方、映画に彩りを添えていたのが、榮倉奈々さん演ずるところの甲斐姫よね。ここからは完全に史実を離れて虚構の世界に入りますが(笑)【行田史譚】にもその甲斐姫の出陣のときの様子が描かれているの。【史譚】が云うところの「麗人甲斐姫が軍装艶やかに凜々しき姿」を誌上再現(単なる引用・転載とも云う)してみますので、みなさんもイメージングしてみて下さいね。

大手口危うし−の報に城代大蔵大輔長親自ら向かおうとするが、甲斐姫これを見て押し止め「今は軽々しく城代の動くときでない、斯る時こそ内乱の恐れもあれば、よくよく内部を固め給え。大手口には我れ立ち向かわん」と、緑の黒髪を振り乱し烏帽子形の兜の緒を締め、小櫻縅の鎧に猩々緋の陣羽織を着し、成田重代の浪切と云う名刀を佩き、実母形見の短刀を添え、黒の駒に金覆輪の鞍を置き、燃え立つばかりの紅の厚總を掛け、銀の麾配を携え手綱を握っての出陣である。【行田史譚】

その甲斐姫ですが、忍城の開城後はその美貌と武勇を伝え聞いた秀吉に請われて愛妾となっているの。パワハラ以外の何ものでもなくて、思わず、このド■■■オヤジが!と怒鳴りたくもなってしまうわよね。映画「のぼうの城」の中では長親に想いを寄せる姿も描かれていましたが、長親もまた、その想いを知りながら成田家を守るためにと甲斐姫を秀吉のもとへと突き放してしまうあたりは、歴史の悪戯で、やはり切ないわよね。秀吉の没後はプツリと動静が途絶えてしまう甲斐姫ですが、生まれる時代を違(たが)えていたら−と思うのは単なるξ^_^ξの感傷かも知れないわね。一方の長親にしても、開城後は下野国烏山藩37,000石に移封された氏長に従うも、その氏長と不和となり出奔・出家しているの。晩年は尾張国に住したと云うことですので、秀吉の許に下った甲斐姫とも接触を持つ機会が、あるいはあったのかも知れないわね。単なるξ^_^ξの願望の産物かも知れないけど。

ここで忍城址の背後に回り込んでみたの。取り立てて見るべきものがあるわけではないのですが、
白塀や土塁などからは忍城の嘗ての姿を思い廻らせながら歩くことが出来るの。

そして、しばらく歩いていると武家屋敷のそれを思わせる造りの門が建てられていたの。
それがこの伝・進修館表門だったの。

【伝進修館表門】  この門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、嘗ての藩校「進修館」の表門であったと伝えられている門です。一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されています。また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保3年(1832)に御奉行後藤五八、大工町世話方大工宋兵衛等によって建立されたことが判明しています。戦災によって一度移築されていることなどから、藩校「進修館」の門であるのかは確定していませんが、現存する行田市唯一の武家屋敷の表門として貴重な歴史的建造物であると云えます。平成18年(2006)3月 行田市教育委員会

忍城址の西側は主に駐車場スペースになっているみたいね。
それはさておき、土塁を右手に見やりながら更に歩みを進めて御三階櫓の建つ場所までひとめぐり。


ここでお詫びがあるの。今回の散策では時間の関係で、忍城址は外周をひとめぐりしただけで終えているの。おもてなし甲冑隊の演舞や博物館の見学は以前訪ねたときのものを紹介しているの。両者を含めて見学するとなると、更に小一時間程の余裕が必要ですので、追体験される場合にはご注意下さいね。

19.浮き城の小径 うきしろのこみち 15:02着 15:07発

【忍城と行田町】  忍城は室町時代の15世紀後半に成田氏によって築かれました。天然の沼地の中に、島状に残る微高地や自然堤防を巧みに利用して築かれていた忍城は、守りやすく攻めにくい関東きっての名城とうたわれていた−と伝えられています。天正18年(1590)に石田三成らの水攻めを受けた後、忍城は開城、成田氏は去りましたが、寛永16年(1639)に老中・阿部忠秋が城主になると、城と城下町の整備が約50年にわたって行われ、御三階櫓などが建設されて”老中格の城”にふさわしい城構えになりました。そして武士は城内や城の周辺に、町人は東側の行田町に集められました。行田町は忍十万石の城下町、日光裏街道の宿場町として繁栄しましたが、明治維新後の明治6年(1873)に、忍城は取り壊されてしまいました。現在は本丸跡に行田市郷土博物館と御三階櫓が建設され、城址公園として整備されています。行田市教育委員会

忍城址から東に延びる遊歩道がこの「浮き城の小径」で、雰囲気が出ていて素敵な散策路になっているの。
ξ^_^ξは行程上逆コースで歩いていますので、産業文化会館側から忍城址を目指す場合にはご注意下さいね。

20.本丸児童公園 ほんまるじどうこうえん 15:10着 15:13発

次の水城公園に向かう途中で見掛けたのがこのSLなの。今では車輌の存在自体が稀有となってしまった感のあるSLですが、雨晒しのまま屋外に静態展示されているなんて、何か勿体ない気がするわね。以前、お隣りの熊谷市を訪ねたときには、荒川公園でD51の姿を見掛けましたが、腐食が進み、見るからに痛々しくて。それに較べると、こちらのC57の方は未だ保存状態が良さそうね。夢物語かも知れないけど、今一度その雄姿を甦らせて高崎線を疾駆、熊谷駅で秩父鉄道のSLパレオエクスプレスにバトンタッチする−と云ったSLの旅が実現出来たら楽しいでしょうね。ここで、このSLが駆け抜けてきた道程と諸元を現地案内板から引いておきますね。

私は蒸気機関車 C5726 号です。私たち C57 型は形態が美しいことから貴婦人と呼ばれ、旅客列車用として合計201輌製作されました。私は昭和13年(1938)川崎車両(株)で生まれ、主に東海道・東北本線の花形コースを、持前の快速で客車を引いて、2,985,783km(地球を約74周半)を走り、昭和46年(1971)12月を最後に引退しました。私が引退した昭和46年(1971)は高崎線行田駅開業5周年記念にあたり、国鉄高崎鉄道管理局(現・東日本旅客鉄道株式会社高崎支社)のご協力により、行田市に迎えられ、ここで余生を送らせて頂いています。行田市

【 C5726 の解説 】  アルファベットは動輪の数を表し、Bは2軸、Cは3軸、Dは4軸です。Cは速度が速く、主に旅客列車用として活躍しました。Bは小型で、主に国鉄の工場や機関区などで、車輌の入れ替え用として、Dは馬力が大きく、主に貨物列車用として活躍しました。デゴイチで知られるD51もこのタイプです。5726の57は型式を表します。10〜49はタンク機関車で、運転席のすぐ後ろに水タンク・石炭車があり、50〜99はテンダー機関車で、水・石炭を積んだ炭水車を、後ろに連結する機関車です。次の26は C57 型の26番目に製作されたことを表します。

機関車全長
全高
炭水車全長
全高
機関車重量
12,960mm
3,945mm
7,320mm
3,080mm
67.5t
炭水車重量
最大図示馬力
最高運転速度
水タンク容量
主動輪直径
48t
120ps
100km/h
17m³
1,750mm

最後に、このC57が迫り来る姿を想像しながら・・・

21.水城公園 すいじょうこうえん 15:15着 15:41発

忍城址の南東に位置して水城公園があるの。最初に目を惹くのがこの大きな「しのぶの池」ですが、池に限らず公園全体が忍城の外堀跡を利用して造られたものなの。その外堀も、元はと云えば忍沼と呼ばれた天然の沼地で、水と湿地に囲まれた忍城が要害堅固な浮き城の異名を持ち得た大きな理由ね。その忍沼が埋め立てられ、現在では行政庁舎や産業文化会館など、行田市の中枢機関が建ち並ぶエリアとなり、一部がこの水城公園として残されたと云うわけ。昭和39年(1964)の開園で、池の周囲を廻る散策路には所々に石積みの橋が架けられるなど、異国情緒も感じられる造りですが、それもそのハズ、中国の江南水郷式造園技法を取り入れて造園したものだとか。

園内には御覧の日本庭園も造られているの。
自然の湧水というわけでは無いのですが、池には綺麗な流水も注ぎ込まれていたの。

「しのぶの池」の南側になりますが、古代蓮が植えられた小さな沼があるのを見つけたの。行田で古代蓮と云えば 古代蓮の里 が広く知られますが、思いがけず、この水城公園でも古代蓮の開花を見ることが出来たの。因みに、さきたま古墳群にある駐車場から丸墓山古墳に向かう道すがらにも蓮池があり、古代蓮を見ることが出来るの。But 蓮の花は午後になると蕾んでしまうので午前中、出来ることなら早朝のお出掛けがお勧めよ。

車道を挟んで東側にも公園の敷地が続いているの。その北側最奥部に建てられていたのが左掲の田山花袋文学碑で、碑面には代表作『田舎教師』の一節「絶望と悲哀と寂寞とに 堪へ得られるやうな まことなる生活を送れ 運命に従ふものを勇者といふ」が刻まれているの。碑の裏面にはこの文学碑が建立された由来が記されていたの。旧漢字で刻まれていることに加えて、一部の文字が判読不能な状態にあるなど、解読には難儀を強いられましたが、何とか読破することが出来ましたので紹介しますね。But 誤記があるかも知れません。その際は御容赦下さいね。併せて、御指摘・御連絡頂けましたら幸いです。

【碑陰の記】  四里の道は長かった。これは花袋の名作田舎教師冒頭の文であるが、行田から羽生を経て弥勒までの道のりを示したものである。今でも行田には作中に美しく描寫されてゐる自然も料亭魚七も柳の湯も行田文學の印刷所もそのままに殘ってゐる。主人公小林秀三は一田舎教師としてこの地に生き この地に住み ここに喜び ここに悲しんだのである。行田並びにその周邊の人々や花袋文學に傾倒する男女が田舎教師に深い郷愁を覺えるのも故なしとしない。今春の一宵花袋文學に造詣深い行田乃人田口寛氏と田舎教師追憶のための文學碑建設のことを語つた。たまたま同郷長野の人関田栄一氏とその夫人寿々氏このことを聞き貞石と共に建設費一切を寄附され市當局もまたこの企てを賛助し凡ての功を竣つた。曩に鉢形城阯の花袋詩碑及弥勒高等小學校阯の田舎教師由縁之地碑を染筆した関係から私に碑表の書と碑陰の撰書を委嘱された。光栄これに過ぎたものはなく韮才を顧みずここに建碑の梗概を叙した。碑前に立つ同好の士の花袋と田舎教師を偲んで戴ければ幸ひである。昭和36年(1961)辛丑年10月 行田市史編纂顧問■窓 山口平八撰書 建設者 行田市長 中川直木 寄付者 行田市長野 関田栄一 関田寿ゞ

園内にはこの他、現在のSBI証券の礎となる大澤証券を設立し、行田市の名誉市民の一人でもある大澤龍次郎(1887-1974)の胸像を始め、地元・行田市に因む石碑などが多く建てられているの。個人的には興味を惹くものが無い(笑)と云うことで、ここでは省略して次へ進みますね。

散策の最後に訪ねたのが「あおいの池」ですが、普段は取り立てて見るべきものもない普通の池ですが、初夏から秋口にかけてはホテイアオイの群生が湖面を覆い、開花時期を迎えると薄紫色の花を一斉に広げるの。開花時期は年に数回あると云うのですが、事前の予想が難しい上に、何と、花の寿命は僅か一日だけで、次から次へと新しい花が開花するので一斉に開花したように見えると云う、特殊な咲き方をするの。実は、行田市内の歴史散策を始める切っ掛けになったのがこの「あおいの池」に咲くホテイアオイの花だったの。一斉開花が見たいがために回を重ねる中で、行田の歴史に関する知見を得て、今回の集大成散策に繋がったと云うわけ。

そのホテイアオイが一斉開花する様子を御覧になりたい方は
水城公園のホテイアオイ を御笑覧下さいね。CM でした。

22.JR行田駅 ぎょうだえき 16:00着

観光レンタサイクルの返却時間ぎりぎりの滑り込みセーフ状態での行田駅到着でしたが、散策の前半は未だしも、後半は駆け足の見学になってしまったのは否めないわね。追体験される場合は、レンタサイクルは早めに郷土博物館あたりで返却してしまい、後は徒歩で巡り歩く方が時間の余裕が持てていいかも知れないわね。今回の散策では、その郷土博物館への入館はせずに済ませてしまいましたが、返却時間を気にしなくてすむので充分見学が可能よ。お勉強は苦手と云う方も、御三階櫓の展望階からの眺めだけは是非体験してみて下さいね。気になる市内から行田駅までの帰路ですが、循環バスの利用が便利よ。


紹介しましたように水城公園のホテイアオイの一斉開花を見たいがために訪問回数を増やす中で行田の歴史についても知る機会を得たのですが、それまではさきたま古墳群のことも知らなければ、忍城のことも知らず、当然ですが『のぼうの城』を読んだことも無ければ観たことも無かったの。いざ訪ねてみれば、古墳時代の埼玉(さきたま)の地には、嘗て東国屈指の巨大文化圏が成立していたこと、また、地元豪族・成田氏の居城とされた忍城は、豊臣秀吉の小田原征伐に伴う水攻めにも屈すること無く、秀吉を以てしても唯一陥落させることが出来なかった難攻不落の名城とされたことなど、歴史の表舞台にも多くの事績を残していることを知らされたの。今回の散策で主な見処は網羅した積もりでも、「古代蓮の里」を始めとして、見残している名所&旧蹟が未だ未だあるの。これからも季節を違えたりしながら訪れてみたくなるような雰囲気が行田の街にはあるわね。みなさんも是非一度お出掛けになってみて下さいね。この頁がそのときの一助となれば幸いです。それでは、あなたの旅も素敵でありますように・・・・・・・

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。 尚、記述中で現地案内板や碑文の内容を紹介していますが、転載にあたり一部修正加筆しています。 なので、必ずしも原文のままとは限りませんので予め御了承下さいね。

〔 参考文献 〕
吉川弘文館社刊 国史大系 続日本紀
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
行田市発行 行田市史編纂委員会編 行田史譚
行田市発行 行田市史編纂委員会編 行田市史
聚海書林刊 大澤俊吉著 行田・忍城と町まちの歴史
鴻巣市発行 鴻巣市市史編纂調査会編 鴻巣市史
鴻巣商工會発行 金澤貞次郎著 鴻巣町史
吹上町発行 吹上町史編纂会編 吹上町史
さきたま史跡の博物館発行 ガイドブックさきたま
その他、現地にて頂戴してきたパンフ、栞など。






どこにもいけないわ