水面を覆い尽くしたホテイアオイが一斉に開花するさまを是非この目で見てみたい−と行田市の水城公園を訪ねたときに、行田市には他にも忍城址をはじめ、さきたま古墳群や前玉(さきたま)神社などの歴史遺産が数多くあることを知り、時間を掛けて訪ね歩いてみたいと思っていたの。補:掲載する画像は一部を除いて幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。
1.JR行田駅 ぎょうだえき 9:17発
2.石田堤史跡公園 いしだつつみしせきこうえん 9:44着 10:05発
更に、運が良ければ、俳優の大和田伸也さん扮する石田三成と家臣達(声優は高塚正也・堀江恭章・龍谷終武さんの三方)によるドラマ仕立ての解説も聞けちゃうの。実は、その運を呼び寄せる秘密の方法があるのですが、ここでネタばらしをしてしまうのも気が引けますので、その方法を知りたい方は、公園内にある東屋をお訪ね下さいね。ヒントが隠されているの。But ξ^_^ξも幾度かトライしてみたのですが、仲々難しいわね。大和田伸也さん扮する石田三成の声を聞くことが出来たのは、残念ながら一回きりなのですが、みなさんも是非、チャレンジしてみて下さいね。ここで冒頭の一部分だけをチラリと紹介しておきますね。
ね、仲々面白そうでしょ?以後の掛け合いは現地にてお楽しみ下さいね。
それにしても秀吉は包囲網を敷くのが好きだったみたいね。案内板は忍城の水攻め以前にも
因みに、築堤作業に駆り出された人足達の当時の日当が記されていましたが、天正10年(1582)の高松城水攻めの際は、土嚢一俵に対して銭百文( or 米一升 )だったそうよ。対して、天正18年(1590)の忍城水攻めの際は、昼は銭60文( or 米一升)で、夜は銭100文( or 米一升 )と、夜間は割増料金が支払われたみたいね。とは云え、高松城水攻めの時と比べたらかなりの賃金カットよね。それとも地域格差かしら?ところで、米一升相当の金額とやらを現在のそれに置き換えると幾ら位になるのかしら?お米一升と云えば大まかに云って約1.5Kgよね。最高級米の魚沼産コシヒカリを当てたとしても金額的には¥1,500程度でしかなくなってしまうわね。丸一日働いて¥1,500は無いわよね。堤の築造は急を要する突貫工事でもあったことを考えると、現在の貨幣価値に換算して¥15,000位の日当だったと思うのが妥当な気がするわね。
道を隔てて高架の南側には石田堤の断面見学施設が造られているの。傍らには町指定史跡・石田堤の案内板が立てられているのですが、ここで云う町とは旧吹上町(現・鴻巣市)のことで、実は、この石田堤史跡公園はその吹上町が整備したものなの。なので、行田市からタダで借りている自転車で鴻巣市の観光施設を訪ねていると云う後ろめたさ(笑)があるのですが、今回は目を瞑って貰いましょうね。
町指定史跡・石田堤 指定年月日 平成5年(1993)5月17日
今回の整備地区は、堤がほぼ南北に断続的に約120m残っています。発掘調査は平成7年(1995)から平成9年(1997)にかけて、整備区域内にトレンチを設定し実施しました。調査の結果、堤の東側の立ち上がりは確認出来ましたが、西側は崩壊が著しいか、区域外に延びていたため、堤の全幅を正確には把握出来ませんでしたが、20m程度と推測されます。
替わって、高架の北側は石田堤跡の保全ゾーンになっているの。
園内には御覧の見張り場も造られているのですが、上ってみたところで、あまり眺望は臨めないの。石田堤が造られた頃は上越新幹線の高架も無ければ、民家も今みたいに多く建てられていたわけでもないでしょうから、標高差が僅かでも見張り場としての機能が果たせたのかも知れないわね。右端はその見張り場から見た東屋よ。その東屋で豊臣秀吉の小田原征伐に関するパネル解説などを読みながら(眺めながら?)暫時の休憩よ。
後日、御手洗の場所を確認してきました(笑)。堤修復ゾーンの南端側に「袋ふれあい公園」があり、併設されている駐車場の一角に立派な御手洗があったの。それにしても、公園と駐車場の異様なまでの広さにはびっくり。ξ^_^ξが訪ねたときには散歩がてらに立ち寄り、愛犬とあそぶ地元の方を一人見掛けただけですが。
3.堀切橋 ほりきりばし 10:05着 10:09発
4.石田堤碑 いしだつつみひ 10:14着 10:19発
こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に城や城下町より下忍・堤根方面に水が溜まってしまい、遂には堤が決潰して水攻めは失敗に終わります。しかし、北条氏の降伏により忍城は開城するのです。今日では、ここ堤根に約250mの堤を残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿いに樹えられた樹齢300年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時を偲ばせる貴重なものでしょう。平成元年(1989)3月 石田堤を守る会 埼玉県教育委員会 行田市教育委員会
残された堤跡には松の木が植栽され、風情ある佇まいを見せていましたが、
堤跡に沿うこの道も江戸時代には主要な道路だったみたいね。
行田市指定文化財 石田堤の並木 昭和34年(1959)3月19日指定
松並木は、暑い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹き付ける風や雪から旅人を守りました。また、風雨や日差しから道そのものを守る役割も果たしていました。明治時代以降も松並木は残され、昭和40年代には補植されて、新たに桜も植えられました。残念ながら害虫の被害もあって、黒松は徐々に欠け、現在では江戸時代から残る松は一本もなくなってしまいましたが、補植された松が育ち、並木は今も往時の面影を留めています。平成27年(2015)3月 行田市教育委員会
その松並木が途切れたところで見えて来たのが御覧の石田堤碑ですが、刻まれている文字はすっかり磨滅していて何が書かれているのか殆ど分からないの。だとすると、余計何が書かれているのか気になりますよね。実は、先程紹介した石田堤の案内板の裏側に読み下し文が記されていたの。難読の漢字と熟語の多出にボキャ貧のξ^_^ξには今ひとつ理解出来ない部分も多いのですが、参考までに転載しておきますね。昔の人は難しい言葉を沢山知っていたのね−と改めて感心させられる碑文ね。
【 石田堤碑 】 凡そ耳目鼻口の心志を感動せしむるや目を最と為す。事の口碑に存するは物の目に存するに如かざる也。汴河(べんが)の大堤は後の王公をして驕奢を警(いまし)め、西湖の蘇堤は後の士庶をして風雅を慕わしむ。聞くならく、当初天正十八年庚寅、豊公東征し相模に軍するや、石田三成等を遣わして忍城を攻めしむ。三成旧堤に因りて長囲を築き、利荒の二水を引きて之に濯ぎしも遂に抜く能わずして去る。後来堤漸く圮廃(きはい)※し、纔(わずか)に茲(ここ)の土を存するのみと云う。蓋し当時民居稀少にして邑を成さざることを知る可し。
乃ち、今、開墾して地を尽し、生歯蕃育(ばんいく)す。其れ誰の賜ぞや。徳沢浹(うるお)う所感載せざる可からざる也。増田豊純、堤の湮没(いんぼつ)に就き口碑も従って亡ぶるを慮り、石を樹てて之を表す。其意蓋し永く邑民をして之を望み徳沢を感載し、且つ多士をして目撃して、乱を治に戒めんと欲すれば也。世の矜伐功を勒し、虚しく諛墓(ゆぼ)を設くるものと殊に異る。静軒居士喜んで誌す。天正庚寅、今茲慶応二年丙寅を距ること凡そ二百七十七年なり。秋巌原翬書丹 鈴木群寉鐫
その石田堤歴史の広場には、忍城の水攻めと石田堤のことを記した案内板が立てられていたの。
ここで掲載するには冗長となりすぎる嫌いがありますので別頁を設けましたので、内容が気になる方は こちら から。
5.さきたま緑道 さきたまりょくどう 10:25着 10:40発
6.さきたま古墳群 さきたまこふんぐん 10:40着 12:43発
現在のさきたま古墳群は古墳群の保存と共に、周辺を含めて史跡公園として整備されているの。園内には移築古民家やさきたま史跡の博物館、埴輪製作の体験学習が出来るはにわ館などの施設も造られているの。園内では古墳とそれらの施設が渾然一体となっていることから、ここでは全部を一纏めにしてさきたま古墳群としていますので御了承下さいね。
南側の入口から入ると最初にあるのがこの奥の山古墳。説明には戸場口山古墳の名もありますが、現在は宅地化されていて墳丘部は既に無くなっているの。因みに、戸場口とは入口のことなので、一番手前に見えることからの名称ね。大きさ的には一辺が40m程の方墳だったそうよ。替わって、次に見えて来るのが中の山古墳で、説明にもあるように、造られたと思われる6世紀末から7世紀初めにかけては前方後円墳造営の終末期にあたり、とりわけ、さきたま古墳群の中では最後に造られた古墳になるの。
【 中の山古墳 】 形状:前方後円墳 全長:79.0m
【 鉄砲山古墳 】 形状:前方後円墳 全長:112.0m
♠ 移築民家 ♠ 瓦塚古墳に続く広場には古民家が移築・展示されているの。
紹介した旧山崎家住宅ですが、現在( ′16.04 )は建物が取り壊されて更地になっているの。
修復が不可能なほど、損傷が酷かったようね。
♠ さきたま史跡の博物館 ♠ さきたま古墳史跡公園の中核施設がこのさきたま史跡の博物館なの。
ξ^_^ξが訪ねたときには、展示品のガイド・ツアーもあったの。平易なことばでの案内は古墳のことを詳しく知らない方にも優しいの。勿論、気になることがあれば何でも聞けちゃうの。常時開催されているわけでは無いようでしたが、チャンスがありましたら是非参加してみて下さいね。
刀身には115文字の金象嵌の銘文が記されていたことから、日本中を揺るがす大発見となった金錯銘鉄剣ですが、そうなると銘文には何が記されているのかすごく気になるわよね。そこで、この頁を御覧下さっているあなただけに特別に教えちゃうわね。
But これでは、何のこっちゃ?よね。
そこで、第一ステップとして銘文を読み下し文にしてみますね。
辛亥の年七月中記す ヲワケの臣 上祖 名はオホヒコ その児 タカリのスクネ その児 名はテヨカリのワケ その児 名はタカハシのワケ
しんがいのとししちがつなかしるす をわけのしん(おみ) かみつおや なはおほひこ そのこ たかりのすくね そのこ なはてよかりのわけ そのこ なはたかはしのわけ
その児 名はタサキのワケ その児 名はハテヒ その児 名はカサハヨ その児 名はヲワケの臣 世々杖刀人の首と為り 奉事し来たり今に至る
そのこ なはたさきのわけ そのこ なははてひ そのこ なはかさはよ そのこ なはをわけのおみ よよ じょうとうじんのおびととなり ほうじしきたりいまにいたる
ワカタケルの大王の寺 シキの宮にある時 吾 天下を左治し この百練の利刀を作らしめ 吾が奉事の根原を記す也
わかたけるのおおきみのじ しきのみやにあるとき われ てんかをさじし このひゃくれんのりとうをつくらしめ わがほうじのこんげんをしるすなり
以上のことを踏まえて、独断と偏見で意訳してみると・・・
辛亥(471)の年の7月中旬 私ことヲワケの臣は以下のことをここに記しおくものである。私の遠い祖先の名はオホヒコと云い ・・・( 中略 ) ・・・ 私の一族は代々杖刀人の首領として天皇にお仕えをしてまいりました。雄略天皇の御宇、朝廷がシキの宮におかれていたとき、天皇が天下を治めるのを私が補佐したことを知らしむるべく、鍛えに鍛えぬいたこの刀を作り 私が天皇にお仕えしてきたことを書き誌しておくものである。
ここまで来ると被葬者の杖刀人首の乎獲居臣なる人物がいったい誰なのかが気になりますよね。残念ながら、東国出自の豪族で、それもこの埼玉(さきたま)生まれの可能性が高く、上級武人として大和朝廷に出仕したことのある人物−と云うことしか分からないの。But 館内でちょっと気になる案内を見つけたの。仮説の域を出ないものですが、きっとそうよ−と思える内容よね。
【埼玉古墳群と安閑天皇紀】 多摩川下流の南武蔵(現在の東京都と神奈川県の一部)では、4世紀から5世紀前半にかけて100m級の大型前方後円墳が継続して築かれていましたが、5世紀後半になると前方後円墳は小型化し、急速に衰退していきます。一方、さきたまの地では、5世紀後半に突如として120mの稲荷山古墳が出現し、次々と大型の古墳と前方後円墳が築かれていきます。こうした考古学的現象を、日本書紀・安閑天皇紀の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族小杵(おぎ)による武蔵国造家の継承をめぐる争いと結びつけて考える説があります。つまり、小杵は争いに負けた南武蔵の豪族、使主を争いに勝った北武蔵の豪族と考え、埼玉古墳群を築いたとする説です。埼玉古墳群の周辺に笠原直使主と同じ笠原の地名と、使主に通じる小見の地名があることも、埼玉古墳群の成立を日本書紀の記事と結びつける根拠の一つになっています。さきたま史跡の博物館
【日本書紀】の安閑天皇紀の関係する記述が気になる方は
「吉見町のお散歩」の 横見神社 の項を御笑覧下さいね。CM でした。
♠ 埼玉県名発祥之碑 ♠ 古代ロマンを胸に館を後にしましたが、道の傍らに埼玉県名発祥之碑と刻む石碑を見つけたの。
ここで改めて紹介するまでもなく、埼玉を「さいたま」と読むか「さきたま」と読むかで対象区域が大きく異なるの。But ξ^_^ξの脳味噌は埼玉=埼玉県として完全に洗脳されていて、「さいたま」以外の読みがあること自体、考えもしなかったの。云われてみれば「埼」だけなら「さき」と読むわよね。とは云え、事情を知る方以外は「さいたま」と読んでしまう方が殆どではないかしら。なので、この頁では引用文でもない限り(例外有り)は埼玉の字は充てずに「さきたま」と平仮名表記にしてみたの。でも、埼玉(さきたま)が行田市で良かったわね、さいたま市だったら余計ややこしいことになっていたわね、きっと。埼玉県さいたま市埼玉・・・
♠ はにわの館 ♠ 埴輪の製作体験が出来るの。
県道R77の信号を渡った右手にあるのがこの愛宕山古墳ですが、案内板があるのでそれと知ることが出来るのですが、無ければ気づかずに通り過ぎてしまうでしょうね、きっと。実は、この愛宕山古墳、後程紹介する二子山古墳と何等かの関係があると考えられているの。方やさきたま古墳群中最小、方や二子山古墳は最大、否、武蔵国最大と云うスケールの違いがあるのですが、距離的には両者は近接しているの。双方共に墳丘部の発掘調査が行われていないので詳細が不明ですが、二子山古墳の築造時期が6世紀初頭前後に対し、愛宕山古墳の方は6世紀後半と考えられていることからすると、両墳の被葬者は親子などの極めて近い血縁関係にあるのかも知れないわね。因みに、古墳の名は嘗て墳丘上に愛宕神社が祀られていたことに由来するの。
♠ 天祥寺 ♠ 天祥寺は位置的にはさきたま古墳史跡公園の中にあるのですが、治外法権的な存在なの。
行田指定文化財 旧藩主松平家の墓 昭和47年(1972)11月9日指定
11代松平忠国は、天保13年(1842)に幕府の命令で異国船警備のために房総半島に出兵、その後品川沖三番台場の守備に当たるなど幕末の国防に深く携わりました。12代忠誠は、明治維新時の当主で、新政府軍が忍城下に迫った際に恭順の意を示し、無事に難局を乗り切りました。これら城主の墓は、当初は墓地の北側に並んでいましたが、墓地の改修で現在の場所に移されています。墓石の形は皆同じで、高さ4.5m、三重の台石の上に石の玉垣が巡らされています。平成25年(2013)3月 行田市教育委員会
次に訪ねる丸墓山古墳の手前100m程の道筋は石田堤の跡になるの。石田堤については既に石田堤史跡公園や石田堤碑のところで詳しく紹介していますので、ここでは傍らに立てられていた案内板の説明を転載して次ぎに進みますね。
【丸墓山古墳】 直径は105mあり、円墳では日本最大です。墳丘は埼玉(さきたま)古墳群の中で一番高く、約19mあります。墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。出土した埴輪から、6世紀前半頃に築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。南側から古墳に至る道は、天正18年(1590)に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡と云われている石田堤です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。平成19年(2007) 埼玉県教育委員会
【丸墓山古墳と忍城】 天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km( 一説には14km )の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと云われています。北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも云われています。
墳丘の頂上からは忍城趾に建つ御三階櫓(後述)が見えると云うのでξ^_^ξもトライしてみたのですが、全然分からないの。画像をクリックすると拡大表示が出来ますのでみなさんも探してみて下さいね。右端はズームアップしてみたものですが、ようやくそれらしき姿形が見えていると云った程度。残念ながらξ^_^ξの手持ちのコンパクト・カメラではこれが限界なのでごめんなさいね。But 当時の人達がスッゴク目が良かったとしても、本当に忍城側の様子がここから見えたのかしらね。エッ?三成側の陣営は皆して遠めがねを使用してた?(笑)戯言はさておき、視力には自信があると云う方は、お出掛けの際に是非トライしてみて下さいね。
ここで石田三成の忍城水攻めを離れて、丸墓山古墳に纏わる面白いお話を見つけたので紹介しますね。【増補忍名所圖會】には
推古天皇の御宇 聖徳太子甲斐の驪駒に乘りて駿河富士の嶽に上る 舍人調子麿一人是に隨ふ 太子山頂に於て四方を臨み給ひ 是より東にありて紫雲靉靆たる處あり 今推量るに武藏國埼玉郡なるべし 彼所は必佛東漸の靈場ならん 吾明年死なむ 汝調子麿吾の廟を此所に建て 吾が常に尊崇する地藏菩薩を安置せよと宣ふ 推古帝廿九年二月朔夜太子斑鳩の宮に薨じたまひ 此月河内磯長陵に葬る 御遺言に任せ 調子麿御遺骨を首に掛けて武州に下向し 埼玉郡今の麿墓の地に至りしに 御遺骨磐石の如く重くなりあがらず 調子麿是ぞ太子の御心に叶ふ靈地にやと 乃ち御遺骨を納め 堂を建て地藏を安置し 一宇を建立して國王山地藏院と號す 云々
と、あるの。荒唐無稽なお話かも知れませんが、聖徳太子の遺骨が納められ、地蔵菩薩を安置する一宇がこの場所に建てられていたかも知れないと思うと、それも一つの歴史ロマンよね。この丸墓山古墳には他にも多くの伝説が語り継がれているみたいね、否、語り継がれていたみたいね。因みに、【名所圖會】の記述にある麿墓と云うのがこの丸墓山古墳のことで、麿墓が転訛して、いつの頃からか丸墓と呼ばれるようになったのだとか。
丸墓山古墳の御案内の最後に、頂上から見える稲荷山古墳と将軍山古墳の景観を紹介しておきますが、この丸墓山古墳の南側には嘗て丸墓山南方円墳群と呼ばれる古墳群が存在していたみたいよ。更に、さきたま古墳群全体では大小合わせて40基を越える古墳が存在していたと云うのですから驚きよね。
【稲荷山古墳】 全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤を挟んで二重に廻り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半頃と考えられ、埼玉(さきたま)古墳群の中で最初に造られた古墳です。前方部は昭和12年(1937)に土取り工事で失われましたが、平成16年(2004)に復元されました。昭和43年(1968)の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。その内礫槨はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つである鉄剣からは、昭和53年(1978)に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに昭和58年(1983)に国宝に指定されています。平成19年(2007) 埼玉県教育委員会
昭和43年(1968)の発掘調査で、後円部の頂上から二つの埋葬施設を発見しました。一つは素掘りの竪穴で、粘土を敷いた上に棺を置いた粘土槨、もう一つは、船形に掘った竪穴に川原石を貼り付けて並べた上に棺を置いた礫槨です。粘土槨は、堀荒らされていて遺物は僅かでしたが、礫槨からは、金錯銘鉄剣を始めとする豊富な副葬品が出土しました。それらは博物館に展示されています。
金錯銘鉄剣が出土したことから一躍脚光を浴びることになった稲荷山古墳ですが、鉄剣の発見に至る過程には奇跡的とも云える、複数の偶然があるの。一つ目はこの稲荷山古墳が発掘調査の対象となった理由よ。当時、さきたま古墳群を中心に一帯を風土記の丘として整備する計画が持ち上がり、資料収集を目的に一基限定で古墳の発掘調査を行うことになったの。当初は前述の愛宕山古墳がその対象に選ばれたのですが、土取りが行われるなどして原型が失われていた稲荷山古墳に急遽変更になったの。
稲荷山古墳の名称ですが、嘗て墳丘上にはお稲荷さんが祀られていたことに由来するの。お稲荷さんの代わりに、火焔を背負い、倶利伽羅剣を手に忿怒の形相で迫る不動明王像を祀っていたら、粘土槨の方も盗掘を免れることが出来たかも知れないわね。それとも、閻魔大王を祀る閻魔堂の方が良かったかしら(笑)。
紹介した稲荷山古墳ですが、′16.04 現在、古墳の整備工事に伴い墳丘への立ち入りが禁止されているの。何でも、墳頂部に設置した礫槨レプリカが老朽化して地下に埋設されている本物の礫槨に影響が及ぶ恐れが出て来たのだとか。そこで現在のレプリカを撤去、新たに実物大の陶板模型を設置する工事が行われるの。完成は平成29年(2017)3月末頃の予定とのことですが、工事終了のアナウンスは さきたま史跡の博物館 に掲載されるそうなので、お出掛けの際には忘れずにね。
【将軍山古墳】 全長90mの前方後円墳です。明治27年(1894)に横穴式石室が発掘され、多数の副葬品が出土しました。この石室には、千葉県富津市付近で産出する房州石が用いられており、古墳時代の関東地方に於ける地域交流を考える上で貴重な古墳です。周囲には長方形の堀が中堤を挟んで二重に廻り、後円部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。稲荷山古墳・二子山古墳と同じ形態です。古墳の造られた時期は、出土した遺物から6世紀後半と推定されています。平成21年(2009)3月 埼玉県教育委員会
それはさておき、この房州石、その名の如く千葉県富津市にある鋸山周辺で多く産出する凝灰質砂岩のことなの。それにニオガイが孔を開けたと云うわけ。遙か距離を隔てた房総半島の海岸から、わざわざそれを大量に運び入れて石室の壁をしつらえていることからすると、被葬者( or 築造者 )の房総との政治的な深い結びつきも想定され、武蔵のみならず、広域に亘る強大な権力を有していたことが窺えるの。
【復元!古墳時代の馬の装い】 我が国に騎馬の風習が始まるのは4世紀末頃からで、朝鮮半島との交流の中で、初めて騎馬術と馬具がもたらされました。馬具は5-6世紀の古墳に、副葬品として納められていますが、金属部分を繋いでいた革や布・木質部分は腐食してしまうため残りません。馬への装着方法は、馬具の形状や馬形埴輪を参考に復元しました。将軍山古墳のような、金色に輝く煌びやかな馬具や旗を付けて飾り立てる馬は、儀式や祭典などの際に重要な役割を果たしました。時には馬冑をつけて武装し、威信を高めることもあったと考えられます。
【二子山古墳】 全長138mの前方後円墳です。嘗ての武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川県の一部に当たる)で最大の古墳です。周囲には、長方形の堀が中堤を挟んで二重に廻り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張り出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤に当たります。内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことは未だ分かっていません。出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は6世紀初め頃と推定されています。平成20年(2008)3月 埼玉県教育委員会
〔 追記 〕:紹介した二子山古墳ですが、こちらの古墳も内堀の埋め立て工事中( ′16.04 現在 )なの。二子山古墳は昭和43年(1968)に水堀で囲む形で復元されたのですが、既に40年以上が経過し、墳丘の裾が崩壊するようになってきたの。そこでやむなく内堀を埋め立てることにしたのだとか。完成予定の期日は明示されてはいませんでしたが、工事を主幹するのがさきたま史跡の博物館なので、完成したら同じく同館HPにその旨情報がアップされるのではないかしら。
7.前玉神社 さきたまじんじゃ 12:44着 13:00発
行田市指定文化財 槙 昭和39年(1964)1月31日指定
前玉(さきたま)神社は平安時代の「延喜式神名帳」に「前玉神社二座小」と記されている古社です。その入口に植えられているこの大木は、「イヌマキ」と称される常緑高木の雄木です。御嶽山信仰の奉納植樹の御神木で推定樹齢600年、樹高20m、目通り幹周4.0m、根回り5.5mを計ります。現存する槙としては埼玉県内最大のものです。樹幹北側の中心部には大きな空洞があり、その中には木曽御嶽神社の石碑が置かれています。平成23年(2011)行田市教育委員会
市指定文化財・建造物 前玉神社の大鳥居 平成11年(1999)3月25日指定
この鳥居は、延宝4年(1676)11月に忍城主・阿部正能(まさよし)家臣と忍領氏子達によって建立されたものである。鳥居は明神系の形式で、正面左側の柱に由来を示す銘文が刻まれており、江戸時代に於ける浅間神社の隆盛を伝える貴重な建造物である。平成13年(2001)2月 行田市教育委員会
さきたま古墳群を離れ、この埼玉(さきたま)の地に、嘗て式内社の一つにもなっていたと云う前玉神社があると知り、訪ねてみたの。式内社とは平安時代の【延喜式】にその名が記載される神社のことなの。【延喜式】や式内社の詳しいことは「吉見町のお散歩」の 横見神社 の項を御笑覧頂くとして、もう一つ気になることがあったの。それは、前玉神社が古墳の上に建てられていることなの。さきたま古墳群とは至近距離にありながらひとり仲間外れにされている感があるのですが、それでも何等かの関係があるのではないかしら−と気になったと云うわけ。残念ながら具体的な繋がりまでは見えては来ませんでしたが、それでもさきたま古墳群築造の終わりを告げる古墳と分かったの。ここでは、それを教えてくれた案内板の説明を紹介しておきますね。
【ぎょうだ歴史ロマンの道・浅間塚古墳】 浅間塚古墳は、埼玉古墳群の南東部に位置する墳径約50m、高さ8.7mの円墳です。古墳の墳頂に前玉神社、中腹に名前の由来となった浅間神社が祀られています。前玉神社は平安時代の延喜式神名帳にその名が見られ、古くから埼玉郡の総社として信仰を集めていました。浅間塚古墳については、比較的最近まで古墳であるのか、後世に築かれた塚であるのか、議論が分かれていましたが、平成9・10年(1997-98)に行われた発掘調査で幅10mに及ぶ周溝が廻ることが確認され、古墳であることがほぼ明らかになりました。
埴輪が樹てられていなかった可能性が高いこと、古墳の南西部の絵馬堂付近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、埼玉古墳群の築造が終わりを迎える7世紀前半頃に築かれた古墳と推測されています。埼玉古墳群の終わりを考える上で、貴重な古墳であると思われます。平成21年(2009)3月 行田市教育委員会
前玉神社の祭神は前玉彦命と前玉比売神の二柱とあり、調べてみると、前玉比売の名は【古事記】の「大国主の神裔」の段に登場するの。須勢理比売のことばを借りれば「八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝こそは 男に坐せば 打ち廻る島の埼々 かき廻る磯の埼落ちず 若草の妻持たせらめ(以下省略)」状態の大国主命は女神達からモテモテなの。当然ですが(笑)多くの御子神達が生まれ、その系譜が紹介されるのですが、その中に
國忍富~ 此の~ 葦那陀迦~ 亦の名は八河江比賣を娶して生める子は 速甕之多気佐波夜遅奴美~
くにおしとみのかみ このかみ あしなだかのかみ またのなはやがはえひめをめとしてうめるこは はやみかのたけさはやぢぬみのかみ
此の~ 天之甕主~の女 前玉比賣を娶して生める子は甕主日子~
このかみ あめのみかぬしのかみのむすめ さきたまひめをめとしてうめるこは みかぬしひこのかみ
とあるの。と云うことは、前玉比売神の父親は天之甕主神で、夫は速甕之多気佐波夜遅奴美神、子供は甕主日子神と云うことになるわね。残念ながら【古事記】には前玉彦命ズバリの神名が無いのですが、上掲の記述から前玉彦命は速甕之多気佐波夜遅奴美神のことと考えて良さそうね。さしあたり、前玉彦命は妃神・前玉比売神の呼称に合わせた別称と云ったところかしら。但し、ここでは前玉神社が云うところの前玉比売神と、【古事記】に記される前玉比売神が同一神であると云う前提でのお話よ。前者の前玉比売神が単に、前玉の地に祀られている一地方神の神名に過ぎないとなると、素性調査(笑)はお手上げね。
ところで、大国主命と云えば『因幡の白兎』で知られるように出雲系の神さまでもあるわよね。と云うことは、前玉彦命・前玉比売神の二柱もまた出雲系と云うわけよね。また、前玉神社では幸魂神社の古名を挙げてもいるの。幸魂から前玉、更に埼玉へと転じたことから、前玉神社は埼玉県名発祥の元になったと云う訳ですが、幸魂から思い出されるのが【日本書紀】に記される下記の場面なの。ここでは大国主命は大己貴神(おおなむちのかみ)と名を変えて登場するのですが、
時に神しき光海に照らして忽然に浮び来る者有り
ときにあやしきひかりうなにてらしてたちまちにうかびくるものあり
曰はく−如し吾あらずは汝如何にぞ能く此の國を平けましや
いわく−もしわれあらずはいまにいかにぞよくこのくにをむけましや
吾があるに由りての故に 汝其の大きに造る績を建つこと得たり−と云ふ
わがあるによりてのゆえに いましそのおおきにつくるいたわりをたつことえたり−といふ
是の時に大己貴神問ひて曰はく−然らば汝は是誰ぞ−とのたまふ
このときにおほあなむちのかみとひてのたまはく−しからばなはこれたれぞ−とのたまふ
こたへて曰はく−吾は是汝が幸魂奇魂なり−と云ふ
こたへていはく−われはこれながさきみたまくしみたまなり−といふ
大己貴神の曰はく−唯然なり すなわち知りぬ 汝は是 吾が幸魂奇魂なり
おほあなむちのかみののたまはく−しかなり すなわちしりぬ いましはこれわがさきみたまくしみたまなり
−とあるの。読んでみたところで、な〜に云ってんだか−と云うあなたに。
大国主命が波打ち際を歩いておった時のことだそうじゃ。見たことも無いような不思議な光が辺りの海面をいきなり照らしてのお。すると忽ち波間に浮かび上がって来る者がおったそうじゃ。驚いて見ていた大国主命に向かい、その者が云うたそうじゃ。「そなたは、もしわしがいなかったならばこの国を治めることなぞ出来なかったはずじゃ。わしがいたからこそそなたは国造りという大業も成し得たのじゃ」と。命は「そなたの力があったればと申されるか、ならばあなたさまは一体どういうお方におわしますか?」と訊ねてみたんじゃが「わしはそなたの幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)じゃ」と。そのことばに得心した命は「確かにおっしゃる通り。あなたさまはまさしくわたくしの幸魂奇魂にございます」と。
奇魂とは万事を弁別する能力を備えた魂のことで、崇高な精神無くして大業成就せず−と云ったところかしら。幸魂奇魂の神に出逢った大国主命は自身も神性を得て結びの神になるの。出雲神話に登場する幸魂奇魂のお話と、古名・幸魂との不思議な一致は偶然とも思えないわね。それはさておき、前玉神社が出雲系の神さまを祭神とすることなどから推すと、早い段階で出雲系の人々がこの地に移り住んでいたと考えられなくも無いわね。更に、さきたま古墳群の被葬者達もまた出雲系に連なる人々なのかも知れず、前玉神社はそうした人々が祖先神を祀り、氏神さまとして崇敬したことをルーツとするのかも知れないわね。But 以上はξ^_^ξの勝手推論ですので、呉々も鵜呑みにしないで下さいね。だったら書くな!−だったかしら(笑)。
かなり昔のお話になりますが、この前玉神社の境内には嘗て行田市立さきたま考古館が建てられていたのだとか。開設されたのは昭和34年(1959)のことで、古墳群からの出土品の収集や展示を行なっていたの。昭和63年(1988)に現在の行田市立郷土博物館(後述)が出来ると、それまでの収蔵品は博物館側に移管され、考古館は廃館になってしまったと云うわけ。収蔵展示施設の変遷もまた、歴史の一頁と云えなくもないわね。
この二首の歌は、地元・行田市埼玉地区に関連する歌と考えられています。この石燈籠は、【万葉集】に収められた歌の歌碑としては、全国的に見て非常に古いものになります。江戸時代には【万葉集】の研究が盛んになり、関心も高まっていました。そうした中で、いち早くこの歌碑を建立した当時のこの地域の人々の文化的水準の高さと、江戸時代の【万葉集】への関心の高まりが窺える、貴重な文化財と云えるでしょう。平成23年(2011) 行田市教育委員会
文化財としての意義は理解出来るのですが、これでは肝心の歌が、何のこっちゃ?−よね。
そこで、読み仮名を付した上で、独断と偏見で意訳してみたので参考にして下さいね。
But 間違っていたら、ごめんなさいネ。
前玉の 小埼の沼に 鴨そ翼きる 己が尾に 降り置ける霜を 掃うとにあらし
さきたまの こさきのぬまに かもそはねきる おのがおに ふりおけるしもを はらうとにあらし
前玉の小埼の沼で、水面で水飛沫を上げながら鴨が羽ばたきをしている。
どうやら、自分の尾に振り降りた霜を払い落とそうとしているようだ。
埼玉の 津に居る舟の 風を疾み 綱は絶ゆとも 言な絶えそね
さきたまの つにおるふねの かぜをいたみ つなはたゆとも ことなたえそね
埼玉の舟泊にとめている舟の舫い綱は、激しい風のために引きちぎられることがあるとしても、
愛しいひとよ、どうか、わたし達の、互いを想う心を伝え合う便りだけは絶やさずにいておくれ。
【万葉集】が編纂された頃は中国大陸からの侵攻を防ぐために九州に兵士が派遣されていたの。それが防人(さきもり)で、最初の頃は諸国から徴兵されていたのですが、後に東国からが専らになったの。二首目の歌はその防人が恋人を残して九州に赴かなければならない胸の内を詠んだものね。二人はあるいは将来を約した間柄なのかも知れないわね。防人が務めを終えてふる里に戻ることが出来るのは三年も先のこと。二人がその後どうなったのかはお読み頂いている皆さんの御想像にお任せよ。無骨かも知れないけど、心優しい古の東男の心模様に触れたところで、さきたま古墳群ともお別れして、愈々忍の御城下へ。
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