≡☆ 鎌倉歴史散策・江の島編 ☆≡
 

現代建築技術の粋を集めた展望灯台を後にして奥津宮に向かいましたが、沿道には往時の信仰を窺わせる史蹟が数多く残されていたの。また、岩屋へと向かう途中にある稚児ヶ淵では悲しい恋物語が伝えられているの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。

《 後編 》 奥津宮〜龍宮〜龍恋の鐘〜稚児ヶ淵〜岩屋〜岩本楼

17.江ノ島大師 えのしまだいし

江ノ島大師 コッキング苑を後に奥津宮に向かい、歩き始めて程無くしてあるのがこの江ノ島大師で、参道には露座の緋い仁王像が脇侍しますが、建物も新しく、縁起を記す栞も無く委細不明なの。知り得た限りでは、高野山最福寺の別院として平成5年(1993)に創建されたもので、本尊の赤不動像は高さ約6mと室内の不動像としては国内最大級と伝えるの。ですが、この江ノ島大師が創建される以前にも、前・江ノ島大師とも呼ぶべき堂宇が存在していたみたいなの。

仁王像 その前・江ノ島大師の縁起などは一切不明ですが、明治期の廃仏毀釈の嵐を受けて廃寺となってしまったみたいね。弁財天信仰の霊地に不動明王を祀る堂宇が建てられていたとは意外な印象ですが、前・江ノ島大師の縁起が気になるわね。ところで、本堂に祀られる不動とは不動明王のことで、ヒンズー経では最高神とされていたのですが、仏教に習合されて仏法の守護神となるの。後に、大日如来の使者となり、時には化身ともなるの。

仁王像 その信仰を広めたのが密教系、とりわけ修験者達なの。残念ながら暗闇に祀られることから御尊顔を拝することは出来ませんでしたが、忿怒の形相は日本独特の像容で、邪気悪心を退治する絶大なパワーの象徴ね。因みに、三大不動は和歌山県・高野山明王院の赤不動、京都府・青蓮院の青不動、滋賀県・園城寺の黄不動ね。下の写真は帰り際に見つけた−お参りはこちらです−の案内ですが、この笑顔で誘い込み、堂内に昇殿したら忿怒形の不動明王が睨みを利かせると云う段取りね。(笑)

小僧さん 観音さま 入るときには気付きませんでしたが、仁王像の傍らの茂みからは幼な子を抱く白亜の観音さまが顔を覗かせていたの。不動明王に恐れおののいた後はこの観音さまの優しい眼差しに触れ、心穏やかになったところで江ノ島大師を後にして下さいね。

18.一遍上人の島井戸 いっぺんしょうにんのしまいど

一遍成就水

道の傍らに忘れ去られたかのようにしてあるのがこの一遍上人の島井戸で、時宗を開宗した上人が飲料水に窮する島民の姿を見て掘り当てたと伝えられているの。時宗とは聞き慣れない宗派ですが、鎌倉時代中期に上人が開宗した一向宗のことで、浄土宗の一派なの。上人は生涯を定住せずに諸国を遊行(修行・教化説法)して歩いたことから遊行宗とも呼ばれ、そこでは南無阿弥陀仏と念仏することで諸尊を従えた阿弥陀仏があなたを極楽浄土へと来迎してくれると云うの。藤沢市にある清浄光寺は、その時宗の本山とされていますが、遊行寺の別称も、この逸話に由来するの。

案内では、井戸の近在に霊跡の蓮華池があると伝えますが、実は、溜池だったのかも知れないわね。井戸はその注ぎ口と云ったところかしら。どちらにしても、周囲を海に囲まれた江の島では貴重な水源となったでしょうね。因みに、案内には江島神社に上人直筆の「一遍成就水」の額が残されていると記されているの。

19.山ふたつ やまふたつ

山ふたつ 山ふたつとは余りにも安易な名称ですが、確かに見たまんま(笑)の景勝地。ちょうどこの辺りが江の島を二分する境界地で、画面右手がこれから訪ねる奥津宮側になるの。云うなれば、江の島のフォッサマグナと云ったところかしら。その奥津宮側は昔から地震知らずの山として地震を感ずることが無かったと伝えるの。そうは云っても、関東大震災の際にはさすがの奥津宮の本殿も倒壊寸前になったそうよ。

木喰上人霊蹟碑 陸地側からは見えませんが、谷底には木喰上人行場窟と呼ばれる洞窟があり、石造の阿弥陀如来像が安置されていると云うの。木喰(もくじき)上人は修験遊行僧として山野洞窟などの自然を相手に修行しますが、中でも有名なのが彫像の作風で、ずんぐりとした素朴なものですが、柔和な相好で刻まれているの。画像の手持ちが無いので掲載は出来ませんが、皆さんも一度位は目にされたことがあるのではないかしら。先程触れました江ノ島大師の不動明王が修験者達に崇敬された明王なら、木喰上人も同じく真言密教系ね。弁財天信仰に彩られた江の島ですが、一方で修験者達の行場にもなっていたみたいね。余談ですが、鎌倉時代に著された【とはずがたり】には、作者が江島の岩屋に住む山伏のところに宿泊した時のことが記されているの。その山伏も嘗ては都にいたことを知り、作者は都談義に花を咲かせるの。それはさておき、当時の江の島の情景を彷彿とさせる記述ですので、ちょっと紹介してみますね。

廿日餘りの程に江の嶋と云ふ所へ着きぬ
所のさま おもしろしとも 仲々ことのはぞ無き 漫々たる海の上に離れたる嶋に 岩屋ども幾らもあるに泊まる
これは千手の岩屋と云ふとて 薫修練行も年經けたりと見ゆる山伏一人 行ひてあり

作者が江の島に訪ね来たのは正応2年(1289)のことですが、嘗ては貴族出の身を以て後深草院の寵愛を受けてもいますので、出家剃髪していたからと云って山伏と同じように岩窟内に宿泊したとは思えないわね。ここからはξ^_^ξの想像ですが、前述の前・江ノ島大師と呼ぶべき僧堂が既にあり、そこに宿泊したのではないかしら。作者も岩屋ども幾らもあるに泊まると記すだけで、岩屋に宿泊したとは書いていないの。尤も、当時は僧堂と云うよりは草堂のようなものだったのかも知れないけど。

20.群猿奉賽像庚申塔 ぐんえんほうさいぞうこうしんとう

短い石段を登ると、左手には多数の猿が山王神を奉祝する様を刻む 庚申塔 が建てられているの。鎌倉にも多くの庚申塔が残されていますが、これほどユニークなものは見たことがなく、全国広しと雖もこの庚申塔だけではないかしら。普通は猿が刻まれていても三猿なのですが、この庚申塔には何と36匹も描かれているの。三尸に因む三猿ではなくて、ここでは完全に山王神の神使の像容よね。

下部も蛇がとぐろを巻いたように造られていますので、龍神に守られて36匹の猿が山王神を奉祝していると云うわけ。庚申・山王・弁財天信仰が習合した非常に珍しい像容よね。建立年代の銘も講中の名も記されてはいませんが、江戸時代中頃に建てられたものとされているの。【新編相模風土記稿】には中津宮に山王社が祀られていたことが記され、その山王社に奉納する意味で建てられたものとしているの。因みに、ここでは庚申塔は Blue Warriors Tower と英訳されていましたが、blue は青、Warriors は古い戦士達の意ですから Blue Warriors で青面金剛のことね。残念ながらこの群猿庚申塔には青面金剛は彫られてはいないけど。

21.源頼朝寄進の鳥居 みなもとのよりともきしんのとりい

頼朝寄進の鳥居 既に紹介済みですが、【吾妻鏡】の養和2年(1182)の4/5の条に
武衞腰越に出しめ江嶋に赴き給う・・〔 中略 〕・・これ高尾の文覺上人
武衞の御願を祈らんが爲 大辨才天をこの嶋に勸請し奉る
供養法を始行するの間 故に以て監臨せしめ給う
密かにこの事を議す 鎭守府將軍藤原秀衡を調伏せんが爲なりと
今日即ち鳥居を立てらる その後還らしめ給う
と記される鳥居が、この鳥居だとされているの。

文政年間には破損・修復されたとしていますが、遙かなる時を経た今でも見ることが出来るのはひとえに石造ゆえの恩恵ね。

ごめんなさい。嘘を書いていました。【新編鎌倉志】には「昔の鳥居は何れの時か滅て 今の鳥居は近年石にて建たり」とあり、現在の鳥居は頼朝が寄進したものではなくて再建されたものなの。訂正してお詫びしますね。

22.力石 ちからいし

参道 鳥居 鳥居を潜り抜けると正面に奥津宮の社殿が見えて来ますが、参道の右手に緋い小さな鳥居が建てられていたの。何が祀られているのかしらと気になり訪ねてみると、最初にあったのが次に紹介する力石。鳥居を潜り抜けた細い参道左手に置かれているの。


説明書きでは、江戸時代に日本一の力持ちと評された岩槻藩の卯之助と云う人が奉納したものとされているの。神社を訪ね歩くと、境内に由来の記された大きな石が置かれているのを見掛けることがありますが、実はお祭りの余興として行われた力競べに使用されたものが多いの。摩滅して読み辛いかも知れませんが、この力石には−奉納 岩槻 卯之助持之 八拾貫−と刻まれているの。一貫は約3.75kgですから80貫は300kg。なんか聞いただけでも思わず身体に力が入っちゃうわよね。参道の先には大公孫樹が中央に聳え立ちますが、その根元に置かれているのが次に紹介する亀石なの。

23.亀石 かめいし

斎藤月岑が著した江戸年代記【武江年表】の文化3年(1806)の条には−辨秀堂何某辨才天を信じ金光明最王經を書寫し清淨の地へ納めん云々−と記され、置き石となる石を探したところ亀甲紋のある石を見つけて併せて奉納したと伝えているの。残念ながら月岑も何某と記すのみで、詳しい人物像には触れられていないの。弁秀堂が何を商う店だったのかは分かりませんが、大旦那だったのでしょうね。月岑は弁才天と表記していますが、実態は弁財天ね。

24.奥津宮 おくつのみや

現在は宗像三女神の一柱・多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)を祭神とする奥津宮ですが、嘗ては御旅所とも云われていたの。実は、この後に紹介する岩屋こそが江島神社の本宮なのですが、当時の岩屋は波が打ち寄せて近付くことも出来ず、洞内に入れずに諦めて岐路に就く場合も多かったの。折角江の島詣に来たのに弁財天の霊威に触れられないとは−と云うことで社を造り、お出掛け頂くことになったわけ。ですが、分霊勧請したわけではなくて飽くまでも旅所なの。その期間は夏の間だけで、云うなれば弁財天の避暑地兼別荘だったと云うわけね。

ねえねえ、どうして夏の間だけだったの?
一年中お祀りすれば良かったのに。

そうね、でも弁才天が降臨したのは飽くまでも岩屋ね。旅所に参拝するよりも霊蹟とされる岩窟に参拝した方が身近に弁才天の福徳に触れることでもあり、自然なことよね。だけど、江戸時代に記された【新編相模風土記稿】には−毎歳八月海波窟中に打ち入りて汚穢を洗ふ−と記されていることから、夏の間は波が打ち寄せて参拝どころではなかったみたいね。中には弁財天の霊威に触れようと決死の覚悟で参籠する人がいたのかも知れないけど。旅所が設けられたのはそんな季節要因からだったみたいね。

八方睨の亀

現在の社殿は天保13年(1842)に建造されたものですが、間近に多紀理毘売命の霊威に触れることは出来ず、参拝は専ら拝殿からなの。その拝殿の天井に描かれているのが八方睨の亀。現在のものは模写を経て平成6年(1994)に復元されたものですが、原画は江戸時代の享和3年(1803)に酒井抱一が描いたものとされ、今は江島神社の宝物庫に収蔵されているの。酒井抱一は当時の尾形光琳派の総帥として名を馳せた画家だったの。正式には正面向亀図と題されているのですが、どこから見ても睨まれているように見えることから八方睨みの亀と呼ばれるようになったの。

八方睨の亀

青銅鳥居のところで紹介した酒井抱一の名ですが、八百善の四代目善四郎の江の島詣に付き従う内に弁財天信仰に帰依するようになり、四代目善四郎が青銅鳥居寄進の世話役を務めたように、酒井抱一もまたこの画を天井に描いて信仰の証としたのでしょうね。寺院の講堂などの天井には雲龍図が描かれることも多くありますが、それをなぞらえて描いたものかも知れないわね。亀は龍や蛇と共に水に深く関係することから水神の使いとされ、弁財天の神使ともなるの。法話を聴衆する者達に法の雨を降らせるのが雲龍図なら、この亀は拝殿で頭を垂れる人々に弁財天の福運を齎す様子を描いたものにも見えますよね。

また、亀は長寿の象徴でもあり、延命長寿は弁財天の福運の一つでもあることから、それに掛けて描いたものなのかも知れないわね。ですが、八方睨みとあるように、参拝者の日頃の行いを窺い、弁財天からの福運を誰に与えようかと品定めしているようにも見えるのはξ^_^ξだけかしら?(笑)

CoffeeBreak 寺社の境内にある池には鯉に混じり、亀が放流されていることがありますが、生けるものを池に放ち、日頃の殺生を懺悔する放生に由来するの。なので、池は放生池の名残りでもあると云うわけ。鶴岡八幡宮の源平池で亀に餌付けする際にはちょっと思い出して下さいね。

杓文字 その拝殿左手には大きな杓文字が奉納されていましたが、そこに描かれていたのが御覧の天女像。横笛を吹きながら舞う姿はまさに羽衣伝説の世界ね。三保の松原 では松の枝に羽衣をうちかけて沐浴するところを漁師に見つけられたことから物語が始まりますが、江の島では誰にも見咎められずに済んだみたいね。ですが、漁師には見つからなかったものの、五頭龍と云うとんでもねえヤツ(笑)に見つかってしまったの。

社殿 ところで、この杓文字にはどんな意味があるのかしら?同じく宗像三女神が祀られる厳島神社がある宮島ではお土産は杓子が有名よね。えっ?宮島ならもみじ饅頭に決まってるじゃねえか。杓子なんて知らねえぞ!ですか?それこそメシとっちゃうわよ(笑)。その宮島では杓子が琵琶の形に似ることから始まったのですが、何か関係するのかしら。単に、杓子=琵琶=妙音弁財天=宗像三女神の連想ゲーム状態?かしら。

25.山田検校像 やまだけんぎょうぞう

山田検校像 奥津宮の社殿右手には大きな石碑が建ち、対面するようにして山田検校像が建てられているの。どんな人物なのか知らないξ^_^ξは碑文読解にトライしてみたのですが、難解で諦めました。何でも山田検校は山田流箏曲の開祖とされる人物で、最初の像は大正6年(1917)に石碑と共に建てられているのですが、像の方は台座だけになっていたことから平成16年(2004)に復元されているの。当初の像は戦時中に供出されてしまったのかしら?

山田検校像 箏とは琴のことで、箏曲は琴を主体にした楽曲のことですが、その道にとんと疎いξ^_^ξが紹介するのも気が引けますので、他の関連サイトを御参照下さいね。因みに、現在では箏も琴も「こと」と訓みますが、元々は柱「じ」を持つものを箏(そう)、無いものを琴(きん)と呼んで区別していたの。琴柱は徽軫とも書かれ、軫は弦を締めるものね。そう云われても分からないわ!と云う方は、金沢の兼六園にある徽軫灯籠を思い出して下さいね。なんだ、余計わかんねえじゃんかよお〜。(笑)

26.龍宮 わだつみのみや

龍宮

奥津宮社殿の左手では大きな岩の上で龍が口を開けて参拝者を待ち構えていますが、龍宮大神を祀る龍宮で、ここでは「わだつみのみや」と訓んで下さいね。「りゅうぐう」では浦島太郎になっちゃうわ。勿論、ここでの龍宮大神(わだつみのおおかみ)とは五頭龍のことね。残念ながら頭は一つですが、立派な髭はあなたの信心度合いを測るセンサーでもあるの。洞内には龍宮の社殿が祀られていますが、入洞する際に髭がピクンと動いたら要注意ね(笑)。龍宮の前には案内板が建ちますが、龍宮祝祷(わだつみのみやほがひ)が紹介されていたの。祝祷とは奉賽詞のことで、ここでは龍宮大神を褒め賛えて詠まれた詞のことね。面白い(そう思うのはξ^_^ξだけかも)ので皆さんにも紹介してみますね。

天地の開けし御世は平成の天の戸明けゆく 東天紅蒼海漫々と立ち渡り 舞う老の波 音こそ潮の満干なれ
てんちのひらけしみよはへいせいのあめのとあけゆく あさひけうみまんまんとたちわたり まうおいのなみ おとこそしおのまんかんなれ
今ぞ時なる重陽※に 龍神の吟ずる声ありて 波浪を蹴たてて逆巻く潮の迫ると共に 龍神海上翔け昇り
いまぞときなるちょうようにたつのぎんずるこえありて なみをけりたててさかまくしおのせまるとともに わだつみのかみうなばらにかけのぼり
五色の彩雲煌々普くに その雲上に顕ず也
ごしきのさいうんこうこうあまねくに そのうんじょうにげんずなり
願事叶ふ如意宝珠三光を発し 島上の龍宮に天降り給ひぬ
ねがいごとかなふにょいほうじゅさんこうをはっし しまうえのわだつみのみやにあめふりたまひぬ
衆生済度の方便生死の相助けんと 御神慮幽くにありて 唸かたじけなきかな
しゅじょうさいどのほうべんしょうしのすがたたすけんと おはかりふかくにありて ああかたじけなきかな

※重陽=九重(きゅうちょう)の天。無限に広がる天空のこと。

龍宮 ところで、江島神社の社紋は三つの鱗を象ったものですが、三つ鱗と云えば鎌倉幕府の執権職として権勢を奮う北条氏の家紋にもなっていますよね。その初代執権となるのが北条時政ですが、【太平記】の時政参篭榎嶋事の段には江ノ島に参籠した時のことが記されているの。前後を省略させて頂きますが、紹介してみますね。

昔 鎌倉草創の始め 北條四郎時政榎嶋に參籠して子孫の繁昌を祈りけり 三七日に當りける夜 赤き袴に柳裏の衣着たる女房の 端嚴美麗なるが忽然として時政が前に來たりて告げて曰く

汝が前生は箱根法師也 六十六部の法華經を書冩して 六十六箇國の靈地に奉納したりし善根に依りて 再び此の土に生れたる事を得たり 去れば子孫永く日本の主と成りて 榮花に誇る可し 但し 其の擧動違ふ所あらば 七代を過ぐる可からず 吾れ云ふ所不審あらば 國々に納めし所の靈地を見よ

と云い捨て 歸り給ふ 其の姿をみければ さしも嚴しかりつる女房 忽ちに伏して長さ二十丈許の大蛇と成りて海中に入りにけり 其の迹を見るに 大いなる鱗を三つ落とせり 時政所願成就しぬと喜びて 則ち彼の鱗を取りて旗の紋にぞ押したりける 今の三鱗形の紋 是也

社殿 作り話と云ってしまえばそれまでなのですが、当時の信仰模様を知る上では貴重な記述で、ここでは弁財天と龍神が同一神になっているの。託宣の中に現れる箱根法師の名が気になりますが、箱根と云えば走湯山もまた龍神伝説が秘められた土地なの。走湯山縁起では山の麓では赤と白の龍神がその尾を湖水に浸しながら交和して臥し、頭を地中に埋め、温泉はその両眼両耳を始め、鼻や口から湧き出しているとされているの。青銅鳥居脇ではスパリゾートが建設されていますが、出来た暁には江の島でも五頭龍が息巻くのかしら。(笑)

記述中にある箱根法師は六部(りくぶ)と呼ばれる行脚僧だったみたいね。主たるものは普門品ですが、66部からなる法華経を書写して、同じく66ヶ所の社寺に納経して歩いた巡行僧のことで、66部を略して六部と呼ばれていたの。彼等は厨子に入れた仏像を背負い、鉦を鳴らしながら歩いたの。北条時政の前世はその六部だったと云うの。記述では66ヶ国の霊地としていますが、66ヶ国は誇張ね。その霊地にしても固定的なものがあった訳ではないようで、飽くまでも66と云う数値に意味があったみたいね。

27.龍恋の鐘 りゅうれんのかね

龍恋の鐘 龍恋の鐘 五頭龍伝説

龍宮の反対側にある木立ちに覆われた小径を歩くと、草叢(笑)の中に忽然と現れてくるのが恋人の丘で、龍恋の鐘が設置されているの。天女と五頭龍伝説に因むものですが、永遠の愛を誓う善男善女の鍵が数珠繋ぎ。わたしも鍵を結びたいけど未だ彼氏がいないの−とお嘆きのあなた、弁財天よろしく、あなたなりの妙音を奏でてみて下さいね。その妙なる調べを便りに、あなたにもきっと五頭龍が現れると思いますよ。既に結ばれたお二人なら雄大な相模湾を前に、今一度永遠の愛をお確かめ下さいね。

28.富士見亭 ふじみてい

稚児ヶ淵 稚児ヶ淵への石段を降りる前に立ち寄り、空腹を満たしたのが富士見亭なの。新鮮な魚介類を提供する食事処が多くある江の島ですので、どのお店を利用するかは皆さんのお好み次第ですが、ここでのお薦めはやはり生のサザエを卵でとじた江の島丼。親子丼の鳥肉の代わりにサザエを使用したものと思って頂ければいいかしら。お値段も手頃ですよ。折角江の島に来ているのですから江の島に因む食事がしたいですよね。テラス席からは眼下に稚児ヶ淵の岩棚が広がるの。

29.芭蕉・服部南郭碑 ばしょう・はっとりなんかくひ

歌碑 階段を降りて稚児ヶ淵を見下ろす一角には、松尾芭蕉の句碑や服部南郭の詩碑などが建てられているの。芭蕉は−疑ふな 潮の花も 浦の春−と情景を詠み、服部南郭の詩碑には−風濤石岸鬪鳴雷 直撼樓臺萬丈廻−と刻まれているの。服部南郭は江戸時代の儒学者・荻生徂徠の高弟ですが、歌碑は南郭の没後の文化2年(1805)に建てられたもので、稚児ヶ淵に打ち寄せる波を、雷鳴が如き音を轟かせて怒濤が押し寄せ、楼台は云うに及ばず、四方までをも震撼させるほどと形容しているの。

30.稚児ヶ淵 ちごがふち

灯籠

眺望の見事さから神奈川県の景勝50選の一つにも指定される稚児ヶ淵。嘗ては怒濤が押し寄せていたのですが、関東大震災で隆起してしまい、波打ち際が遠ざかると現在のような岩棚が出来上がったの。稚児ヶ淵の名は鶴岡八幡宮寺相承院の稚児がこの淵から身投げしたことに由来し、岩の上に建つ燈籠はその供養塔と云ったところかしら。いつ頃建てられたものかは分かりませんが、前述の南郭の詩には楼台が詠まれていますので、その頃には既に建てられていたと云うことみたいね。ところで、この稚児ヶ淵には悲しい物語が伝えられているの。それが稚児ヶ淵伝説と呼ばれるもので、みなさんにもちょっと紹介してみますね。

むか〜し鎌倉の有名な建長寺に孝徳庵と云う塔頭があってのお、自休と云う若いお坊さんがおられたのじゃ。修行を重ねる自休じゃったが、この江の島にもやって来てのお、百日詣をしておった時のことじゃ。鶴岡八幡宮にも相承院と云う僧堂があったのじゃが、そこには白菊丸と云う稚児がおったのじゃ。偉いお坊さんに付き従って来たんじゃろうが、それを見初めたのが自休じゃった。その出で立ちに修行の身であることも忘れ、想いを寄せる自休じゃったが、とうとう思いの丈を伝えたそうじゃ。

じゃけんども白菊丸にはその想いが通じなくてのお、じゃがそのことで益々自休の心は燃え上がったのじゃ。そうしてのお、自休の熱心さに絆されて白菊丸の心もなびいていったようじゃのお。そんなある日のことじゃった。白菊丸は夜陰に乗じて江の島に渡り来ると、渡し篭の人足に扇子を手渡し、後に私を訪ね来るひとあらばこれを見せてたもうれ−と告げてこの稚児ヶ淵へとやって来たそうじゃ。そうしてしばらくは崖の上に佇む白菊丸じゃったが、その内静かに波頭に身を投げたと云うことじゃ。その扇子には辞世の句がしたためられておったそうじゃ。

白菊と慕ぶの里の人とはば 思い入江の 嶋とこたへよ
うきことを思い入江の 嶋かげに 捨てる命は波の下草

そうとは知らず追いかけて来た自休じゃったが、事の次第を知ると

白菊の花の情けの深き海に 共に入江の 嶋ぞ嬉しき

と詠み、自らも稚児の後を追い、身を投げたそうじゃ。それからと云うもの、誰云うとなく、この淵を稚児ヶ淵と呼ぶようになったそうじゃ。とんとむか〜し昔のお話しじゃけんども。

灯籠 その稚児ヶ淵伝説が一躍知られるようになったのが、伝説を題材にして作られた歌舞伎の櫻姫東文章なの。白菊丸の後を追って身投げする自休ですが、芝居では、いざ身を投げる段になると気後れしてしまうの。心変わりを恨んで下さるな−と淵を見下ろすと、底からは怨念の炎が赤々と燃え上がり、やがて白菊丸の魂が一羽の白鷺となり、月明かりの夜空に飛び立つの。それから17年の歳月が流れたある日のこと。修行を経て阿闍梨となり、名も清玄と改めた自休ですが、諸般の事情から剃髪出家を望む、やんごとなきお方の息女・桜姫と出逢うの。

そうして桜姫に授戒する清玄ですが、生まれつき開かずにいた左手が開き、中からは清玄の名を記した香箱の蓋が滑り落ちたの。その香箱こそ、身投げする際に互いの名を記し取り交わしたものだったの。時に桜姫は17歳。白菊が淵に身を投じたのも17年前のきょうこの日のことで、桜姫を白菊丸の生まれ変わりと知った清玄は、その因果におののくの。物語はその後権助と云う第三者を巻き込み、どろどろの愛憎劇が演じられるのですが、今度こそ共に死のうと桜姫に云い寄る清玄も誤って桜姫に殺されてしまうの。桜姫が愛欲に溺れた相手の権助も実は清玄の弟で、父と弟を殺した張本人と知り、桜姫の手で殺されるの。桜姫の流転は父が殺され家宝が盗まれたことに始まるのですが、権助の手から家宝を取り戻した桜姫は無事お家再興が叶い、めでたし、めでたし−となるの。

内容は大分端折ってお伝えしましたが、気になるのは身を投じる白菊が自休に向かって告げる−女に生まれてあの世では夫婦となりとうござります−の台詞ね。実は、白菊丸は男の子だったの。当時は女人禁制の僧堂も多く、僧侶の身の回りを世話する給仕として女性の代わりに稚児が採用されたの。時には容姿端麗を以て性の対象とされることもあり、邪淫を戒める仏教界にあって矛盾を抱えた事例ね。歌舞伎役者の女形ではありませんが、白菊丸も小袖を纏い、妖艶な立ち振る舞いをしていたのかも知れないわね。

31.第一岩屋 だいいちいわや

稚児ヶ淵を後に弁財天の霊蹟とされる岩屋を訪ねましたが、【江嶋縁起絵巻】には名のある高僧達も多く参籠したことが記されているの。【江嶋縁起絵巻】は室町時代の作とされ、史実の程は?ですが、紹介してみますね。

文武天皇3年
(699)
伊豆・大島に流されていた役小角は紫雲たなびくこの嶋を見つけて飛来
岩窟に不動明王を念じて七日間参籠したところ、忽然と弁才天が顕現
養老7年
(723)
泰澄が参籠。岩屋から輝く雲湧き起り弁才天が顕現し之を拝す
泰澄は白山の妙理姫に十一面観音を感応するなど神秘的な事蹟を多く残しているの。
神亀5年〜天平6年
(728〜734)
相模国・道智上人が岩窟に参籠し法華経を読誦
すると弁才天が毎日聴聞に訪れ、何と食事も提供してくれたの。(笑)
弘仁5年
(814)
弘法大師こと空海が岩窟に参籠。弁才天の顕現するを見て塑像を造立し安置
因みに、空海は内裏の神泉苑での降雨祈願の際には善女龍王を勧請してもいるの。
仁寿3年
(853)
慈覚大師が嶋上に五色の雲がたなびくのを見て参籠
弁才天が雲中に顕れたことから弁才天像を彫り窟中に安置
元慶5年
(881)
安然上人、春先より参籠修行すると秋口の夜中に弁才天が示現
安然上人は伝教大師(最澄)の後を円仁・円珍から引き継ぎ天台密教を確立した人物
建仁元年
(1202)
慈悲上人が参籠。紫雲湧き起り薫香漂う中、弁才天が童子を従えて燦然と顕現
蟇が石に化せられたのは上人が千日修行していたこの時のことね。

以上は弁才天の顕現譚ですが、さしずめ高僧達の総動員状態ね(笑)。但し、縁起絵巻には記載されない事柄も含めて紹介していますので御注意下さいね。【吾妻鏡】ではその弁才天が龍神としても祀られるようになり、降雨祈願の対象にもなったことが記されているの。ある時は武神・軍神となり、ある時は降雨の龍神となるなど七変化の始まりね。承元2年(1208)ノ6/16の条には

去る月より今に至るまで一滴の雨も降らず 庶民耕作の術を失う
仍りて祈雨の事を鶴岡の供僧等に仰せらるるの処 江嶋に群参し 龍穴に祈請すと

その翌日には無事降雨となり、霊威も発揮されるのですが、衣や剣の奉幣は鶴岡八幡宮寺宛のもので、ちょっとそれはないんじゃないの−よね。江島明神が八幡神の眷属にされつつあったのかしら。その八幡神も元は地方神に過ぎなかったのですが、聖武天皇の東大寺大仏殿の造営に際し、守護神となり之を扶くと託宣したことから大躍進を遂げますが、【吾妻鏡】には江の島でも託宣があり、神託を受けて右往左往する人々の姿が記されているの。建保4年(1216)の1/15の条には

相模の国江嶋明神託宣有り 大海忽ち道路に変ず 仍って参詣の人舟船の煩い無し
鎌倉より始め国中の緇素上下群を成す 誠に以て末代希有の神変なり
三浦左衛門尉義村 御使いとしてその霊地に向かう 帰参せしめ 厳重の由 之を申す

また、寛喜元年(1229)11/17の条には−江嶋明神託宣有り 崇敬の族に於いては福田を授かるべきの由と 仍って道俗群を成すと−などとも記されているの。今でこそ笑い話かも知れませんが、当時の人々は神仏の意志として真剣に捉えていたの。敬う者には福田を授けると云うのですから、弁才天から弁財天へと変身する過程にあったのかも知れないわね。

桟橋 前置きが長くなりましたが、岩屋の見学に進みましょうね。稚児ヶ淵から岩屋までは遊歩道が続き、御覧のような桟橋がめぐるの。平らな岩棚が広がり、磯遊びに戯れる親子連れや、釣り糸を垂れる太公望達の姿も多く、思い思いに時を過ごされていましたが、打ち寄せる波には呉々も気を付けて下さいね。この日も気の早い方が潮溜まりで泳ぎ始め、その内波に掠われてしまったの。運良く監視していた船に助け上げられ、事なきを得ましたが。

岩棚 弁財天が降臨したと伝えられる岩屋は、前述のように霊蹟として名のある高僧達が参籠したことになっていますが、現在は第一岩屋と第二岩屋が見学可能になっているの。古い写真などを見ると、木製の桟橋が張り巡らされて、手の加えられていない岩屋を見学させていたようですが、現在は霊蹟と云うよりも、ギャラリーや夜光虫の疑似ディスプレイがあったりと、立派な観光施設になっているの。入洞料:¥500

パネル 見学の受付を済ませると第一岩屋への側洞が続きますが、壁面には江の島の自然や歴史を紹介したパネルが掲示されているの。一通り読み終えた暁にはあなたも立派な江の島通になっているかも知れないわよ。ですが、見ていると殆どの方が素通りされてしまうの。側洞を過ぎて岩屋の本洞に入ると照明も少なく、あったとしても暗くて良く分からないの。少なくとも岩屋のことを記したパネルだけはお読み頂いてから見学されてみては?説明にあったのはこれね−と理解も深まると思いますよ。

ここでパネルに記されていた江の島の創成期のことを皆さんにもちょっと紹介してみますね。今からざっと3,000万年前頃のことですが、江の島に限らず神奈川県下はその殆どが海の底で、江の島附近は静かな海であったことから砂泥が堆積していたと云うの。その堆積層は葉山層と呼ばれ、それが2,500万年前になると隆起して丹沢から三浦・房総半島にかけて山脈のような地形が生成されたの。その後、気の遠くなるような時間の中で侵食と堆積を経て、江の島周辺も隆起を繰り返し、今から凡そ7〜8万年前に島が海面に姿を現したの。近年では大正12年(1923)の関東大震災時に再び隆起しているの。

側洞を抜けて最初にあるのが夜光虫の放つ光を模したディスプレイのある池ですが、光量不足で画像の掲載が出来ませんので悪しからず御了承下さいね。【新編相模風土記稿】では−海水窟中に激入して凡そ六七歩の際に池を成せり−と記しますが、この池のことかしら。池を前にして右手には空に向かい洞門がぽっかりと口を開いていますが、嘗てはそこから怒濤が押し寄せていたのでしょうね。池を過ぎた左手には燭台を貸して下さる職員の方がいらっしゃいますので、蝋燭の仄かな明かりを頼りに洞門内の探索へいざ出発よ。奥に向かうにつれて狭くなる洞窟ですが、順路脇には石仏や龍神像が並び建てられているの。

石祠

洞窟の最奥部には御覧のような石祠が祀られていますが、信仰の霊地として崇められていたことを示す遺物ですよね。何でもその先は富士にも通じていると云うのですが・・・。お話しの序でにその根拠になっている?と思われる【吾妻鏡】の記述を紹介してみますね。それによると、富士の狩場で大きな洞門が見つかり、源頼家に命じられた仁田忠常が供を従えて洞窟に入り、龍神に呑み込まれそうになったと云うの。ここでは江の島の岩屋に通じていたと記しているわけではありませんが、後に説話化される中で脚色されたのでしょうね。真偽の程はお読みのあなたにお任せしますが、先ずはその記述をお楽しみ下さいね。

〔 建仁3年(1203)6/1の条 〕 將軍家 伊豆の奧の狩倉に著御す 而るに伊東崎と號するの山中に大洞有り 其の源の遠さを知らず 將軍之を恠しみ 巳の剋 和田の平太胤長を遣はして之を見せらるるの處 胤長 火を擧げて彼の穴に入り 酉の刻歸參す 申して云わく 此の穴行程數十里 暗くして日光を見ず 一つの大蛇有り 胤長を呑まんと擬するの間 劔を拔きて斬殺し訖んぬと

〔 引き続き、6/3の条には 〕 將軍家駿河の國富士の狩倉に渡御す 彼の山麓にまた大谷有り 其の所を究め見しめんが爲 新田の四郎忠常主從六人を入れらる 忠常御劔を賜りて人穴に入る 今日は歸出せずして暮れをわんぬ

〔 そして明くる6/4の条では 〕 巳の剋 新田の四郎忠常 人穴より出でて歸參す 往還一日一夜を經るなり この洞 狹くして踵を廻すこと能はず 意のままに進み行かれず また暗くして心神を痛ましむ 主從各々松明を取る 路次の始中終 水流に足を浸し 蝙蝠顏を遮り飛ぶこと幾千萬なるかを知らず その先途は大河なり 逆浪流れを漲らし 渡らんと欲するに據を失ひ ただ迷惑するの外他に無し 爰に火光に當りて河の向に奇特を見るの間 郎從四人忽ち死亡す 而るに忠常 彼の靈の訓に依り 恩賜の御劔を件の河に投げ入れ 命を全うし歸參すと 古老の云く これ淺間大菩薩の御在所 往昔より以降 敢えて其の所を見ることを得ずと 今の次第 尤も恐るるべきかと

草蔓 と云うことで、祠の背後から生暖かい風が流れて来たら、それは龍神の吐息かも(笑)。余談ですが、左掲の画像上部に御注目下さいね。撮影する本人も気付かなかったのですが、天井から植物が垂れ下がっているの。その葉もちゃんと緑色しているの。緑色をしていると云うことは葉緑素をしっかり含むと云うことで、光の射し込まぬ洞窟内で不思議な光景よね。まさか訪ね来る観光客が灯す僅かな明かりを頼りに光合成するわけでもないでしょうし。それとも人工的な飾りだったのかしら?

32.亀石 かめいし

桟橋 自然の神秘に触れたところで第一岩屋を抜けて次の第二岩屋へと向かいます。御覧のような渡り橋を歩きますが、その途中で、波が打ち寄せる潮溜まりに亀石が見え隠れしているの。誰の手によるものなのかは知られていませんが、弁財天信仰に因んで刻まれたものとされているの。大海原を目指して帰り行く姿は龍宮伝説の亀を想わせ、浪漫溢れる造形物になっているの。遊び心にしては粋なはからいよね。

亀石

実は、浦島太郎伝説が神奈川県下にも残されているの。それに依ると、水江の浦島太夫と云う者が相模国の三浦の里に住んでいたとされ、長年単身赴任(笑)していた丹後国から戻ると太郎と云う一子をもうけたの。それが浦島太郎だと云うの。以後の展開は本家のそれとほぼ同じ内容ですが、所縁のものとされる石や塚が県下に残され、天保5年(1834)から天保7年(1836)にかけて出版された【江戸名所図会】にもそのことが記されているの。ここで気になるのが相模国の三浦の里ですが、普通に理解すれば三浦半島のことよね。亀の向かう方角には勿論その三浦半島が。

この亀石がいつ頃彫られたものかは分かりませんが、作者はその浦島伝説を意識して刻んだのではないかしら。弁財天の神使としての亀が龍宮伝説につながり、ここに一つの造形を作りあげたと云っては大袈裟かしら。その場を離れようとはしない亀ですが、放たれた暁にはどこへ向かうのでしょうね。見る者を悠久の時の流れの中に誘なってくれる亀石ですので、岩屋を訪ねる機会がありましたら忘れずに御覧になってみて下さいね。

33.第二岩屋 だいにいわや

龍神 第二岩屋は第一岩屋に較べると規模の小さな洞窟ですが、色とりどりに光る小石のディスプレイがあり、お洒落な演出がなされているの。奥に向かうと雷鳴のような音が耳に届くようになりますが、最奥部に祀られるのがこの龍神像。一定時間毎に電光と雷鳴が轟く仕掛けになっていますが、フェンスで仕切られていますので襲われる心配はありませんので御安心を。余談ですが、第二岩屋を訪ねる際には白い服装の着用をお薦めしますね。その訳は皆さんの眼で御確かめ下さいね。

34.稚児ヶ淵の磯 ちごがふちのいそ

磯 第二岩屋の見学を以て此度の江の島散策の行程も全て終了よ。帰り際に磯へ降りてみましたが、皆さん思い思いの休日を楽しまれていました。波が打ち寄せる岸壁で太公望が釣り糸を垂れる一方で、小さな潮溜まりに小魚を見つけ必死に釣り上げようとする男性の方がいたり。それもメダカほどの小魚で、見ていると梳くい上げた方が早いんじゃないの?と思ってしまいますが。失礼してしばらく一緒に覗き込んでいたのですが仲々餌に食い付いてくれないの。食い付いたのかと思うと餌を突ついてみただけと、小魚に弄ばれているようで。(笑)

35.遊覧船乗場 ゆうらんせんのりば

稚児ヶ淵 気長な釣り人に礼を伝えてその場を後にしましたが、稚児ヶ淵の燈籠の建つ背後からは遊覧船が出ているの。来た道を戻るとなると稚児ヶ淵からは急な石段を最初に登らなくてはならないの。来る際に行き交った方々はその急な石段を登らされて皆な肩で息をしていたの。健脚で体力に自信のある方でしたらお引き留めはしませんが、船上から江の島を見やるのも一興ですよね。

べんてん丸 帰宅時間を迎えて大勢の方が並んでいましたが、多客期には臨時便も出てピストン輸送しているの。2,30人も乗れば満員となるような小舟ですが、船名はその名もべんてん丸。僅か10分足らずの乗船時間ですが、歩いた軌跡を思い出しながら暫しの船上遊覧をお楽しみ下さいね。但し、不定期運行と聞きますので注意が必要よ。乗船料:¥300
江の島遊覧船 TEL:0466-22-6954

36.磯料理・かいしま いそりょうり・かいしま

磯料理・かいしま

首都圏からは日帰りで訪ね来られる方も多いように見受けられますが、折角江の島に来たのだから美味しいものを食べてから帰ろうよ−と云う方にお薦めなのがこの「磯料理・かいしま」よ。青銅鳥居からの参道を少し歩いた左手に位置するお店ですが、陽が沈む頃となると順番待ちする方がいらっしゃるほどの人気なの。但し、お値段の方は決して安い!と云うことではないの。お薦めする理由は出される料理の新鮮さとそのボリュームなの。お刺身には目がないの−と云うあなたでも、大食漢の貴兄でも、ネタの厚みにはきっと満足されると思いますよ。但し、女性の方にはちょっと量が多いかしら。そんな時には彼氏や最愛のお連れ合いの方と仲良く分け合って下さいね。

磯料理・かいしま 余談ですが、活き烏賊があると聞き、烏賊好きのξ^_^ξは勢いに任せて頼みましたが、烏賊そーめんよろしく烏賊を縦方向に長く切って貰えないかしら?と、とんでもない我儘を云ってみたのですが、快く応じて下さいました。旅の上での恥はかき捨てよね。板さんを困らせるような我儘は困りものですが、季節のお薦めを訊ねてみるのもいいかも知れないわね。この「かいしま」さんの他にも、青銅鳥居近くには「丸だい仙水」と云う磯料理のお店もあるの。残念ながら未体験ですので紹介出来ませんが、海産物を扱う問屋の直営店と聞きます。

37.岩本楼 いわもとろう

岩本楼 折角江の島に出掛けて来たんだから泊まって帰ろうよお〜と云う方のために、参考までに岩本楼の宿泊記を紹介してみますね。湘南にはセレブなあなたを満足させるホテルも数多くありますが、江の島で一番江の島らしさを感じられる宿として選んでみたのがこの岩本楼なの。江戸時代に至り、庶民の間で江の島詣が盛んとなった頃は、多くの堂宇が島内に散在し、金亀山与願寺とも呼ばれ、岩本院・上之坊・下之坊の三院があったの。中でも岩本院は本宮とされる岩屋を預かり、江島寺とも呼ばれていたの。

岩本楼 その岩本院は三院の中でも与願寺の総別当を努め、肉食妻帯が許されると云う特異な存在で、寺社奉行直轄の宿坊でもあったの。廃仏毀釈の嵐を受けて明治7年(1874)にそれまでの経験を生かして寺を廃業すると旅館の運営を始めたと云うわけ。そんなことから岩本楼には貴重な遺品が数多く伝えられているの。嘗ては江の島弁財天信仰の総本山と云うべき存在であった岩本院。その由緒正しき岩本院に宿泊しない手は無いわね。

十五童子 ロビーに入ると最初に目に飛び込んで来るのがこの八臂弁財天像よ。撮影禁止ですが、無理をお願いして収めさせて頂いたもの。説明では像高55cm余の寄木造りで、目には玉眼が嵌め込まれ、室町時代後期に造立されたものと推定されるとしているの。御覧のように頭上に稲荷鳥居を載せ、宝冠正面には人面蛇身の宇賀神を配置することから宇賀神と習合した宇賀弁財天ね。傍らには十五童子像が並びますが、弁財天の福徳を人々に伝える従者達なの。

宇賀神と弁財天の習合を決定づけたとされる前述の弁天五部経ですが、その中に描かれているのが十五童子なの。頭を角髪に結う姿形から日本で生まれたことを示し、なので弁天五部経も日本で造られた偽経とされているの。そうは云っても、その由来を別にして、広く信仰されるようになったのは偽りの無い事実ね。その十五童子ですが、一日から十五日を交替で給仕して弁財天を助けると云われているの。独断と偏見で各々の童子が何を司るのか紹介してみますね。

愛敬童子
衣裳童子
印鑰童子
官帯童子
牛馬童子
計升童子
金財童子
蚕養童子
従者童子
酒泉童子
生命童子
船車童子
稲籾童子
飯櫃童子
筆硯童子
あいきょう
いしょう
いんやく
かんたい
ぎゅうば
けいしょう
こんざい
さんよう
じゅしゃ
しゅせん
しょうみょう
せんしゃ
とうちゅう
はんき
ひっけん
弓と矢を持つことから愛のキューピーッドかしら?
身に纏う衣類は必需品よね。えっ?毛皮のコートが欲しい?(笑)
鑰とは鍵のことで、宝珠を併せ持つことから宇賀神の化身?
持ち物は帯。役職を司る童子かしら。
ダンプもトラクターも無かった当時は牛馬が貴重な労働力。
五穀豊穣を願う人々に分け与える豊穣の度合いを計る?
秤を持ち、弁財天が分け与える財宝を計量する?
絹は富の象徴ね。
如意宝珠を三つも抱え、あなたの願いのままに叶えてくれる福徳の象徴ね。
お酒は百楽の長で延命長寿の薬でもあるわね。
延命長寿などの福徳祈願に応える係り?
船や車と云っても当時は荷物を運ぶ舟や荷車ね。
稲束を持つことから稲荷神の化身?
食膳の中心にあるのは御飯よね。
硯と筆を持つことから学問成就を司る係り?

以上が十五童子の陣容と役割分担ですが、後に金銀財宝の入る袋を抱えた善財童子が加わり、十六童子として祀られることもあり、同じく袋を肩にする大黒天と習合したりもするの。因みに、鎌倉・長谷寺の弁天窟に祀られる十六童子が好例ね。その入口左手にある弁財天像も宇賀弁財天なの。機会がありましたら御覧になってみて下さいね。

お供龍 小槌 弁財天像の右手には弁財天お供龍が祀られているの。弁財天の美貌に目が眩み眷属となった五頭龍ですが、虎のそれに似た掌も無く、鷹のそれに似ると云う爪も無いことから五頭龍と云うよりも初期の宇賀神と云うか、龍神の像容ですね。弁財天像の前には御覧のように龍の鱗を模した小槌なども置かれているの。

この他にも岩本楼には資料展示室が設けられ、伝来の遺品や貴重な史料が数多く展示されているの。宿泊客の方でしたら誰でも無料で見学させて貰えますので、是非御覧になってみて下さいね。そうは云っても宿泊する機会が無さそう−と云う方に少しだけ紹介してみますね。尚、掲載に際しては原画像にトリミングを加えていますので実物は是非皆さんの目で御確かめ下さいね。

? 嘗ては将軍家や諸大名も参詣時に宿泊したと云われる岩本院。当時は富士山の眺望に優れた富士見の間と呼ばれる特別室があったと聞くの。左掲はその富士見の間ではありませんが、どう云う部屋か分かりますか?その答えは宿泊時にネ。

展示室には貴重な史料が並びますが、とりわけ貴重なのが【江嶋縁起絵巻】で、目にすることが出来たのは感動ものでした。

題簽にもあるように【江嶌五巻縁起】が正式名称で、作者は不詳ですが、室町時代の後期に作られたものと推定されているの。元々の縁起絵巻は延暦寺の皇慶と云う僧が永承2年(1047)に記したものとされているのですが、その原本が失われた今では岩本楼に伝来する絵巻が最古のものになるの。その絵巻に描かれる場面を二つ程紹介してみますね。

左掲は絵巻の第四巻・第六話に描かれる弘法大師の物語の場面。弘仁5年(814)に空海こと弘法大師が東海に遊行して来た時のこと。相州・津村の湊に泊まり、ふと江の島を望むと島に懸かる雲上に金龍が現れたと云うの。その奇瑞に接した大師は翌日早速江の島に渡ると岩屋に参籠して護国を祈願したの。やがて七日目の未明のこと。大師の眼前に弁才天が顕れて国家鎮護と除災を告げたと云うの。その霊威に感応した大師は弁才天の塑像を彫ると金窟に社を建てて祀ったの。補:津村とは現在の腰越辺りのこと。因みに、脇侍する二神は帝釈天と梵天。

こちらは弘法大師の弁才天顕現譚から40年程後の仁寿3年(853)、慈覚大師が参籠したときの場面。嶋上に五色の雲がたなびくのを見た慈覚大師が参籠して祈願すると弁才天が雲中に顕れたの。慈覚大師もまた弁才天像を彫り窟中に安置したと云われているの。絵巻では雲上の弁才天を前に大師が座していますが、何を語っているのでしょうね。ところで、脇侍する二神は何を表しているのかしら。

金光明最勝王経 左掲は弁才天の御利益が説かれている金光明最勝王経なの。法華経・仁王経と共に国家鎮護の三部経とされ、弁才天の像容を−八臂を以て 〔 中略 〕 端正にして見んと楽(ねが)うこと満月の如し−と形容しているの。鎌倉時代には武神としても崇められる弁才天ですが、最勝王経が説くように、元は国家鎮護の神でもあったの。なので、弘法大師が護国祈願したのも理にかなうわけね。像容にしても八臂が基本と云うことで、妙音を奏でる二臂の弁財天となるのは後のことね。

夕景 何だ、宿泊記になってねえじゃんかよお〜とお怒りの貴兄に。お待たせ致しました。館の海側には屋外プールも設けられ、気の早い親子連れの方が泳ぐ姿も見受けられ、その先にある砂浜は潮が引くと岩場が現れ、小さな子供さん達には絶好の磯遊びの場となるの。堤防に守られていますので波も静か。食事前の一時を楽しまれてみては如何かしら?写真は夕景を捉えてみたものですが、雲が多くて残念でしたが、富士山を望むことも出来ました。

夕景 弘法大師の奇譚の金雲に比定するにはちょっと大きすぎるようですが、晴天の日には綺麗な夕陽を眺めて過越すことが出来そうね。夕景に親しんだところで湯浴みに向かいましたが、岩本楼にはユニークなローマ風呂と弁天洞窟風呂の二つがあるの。勿論、朝夕で男女が入れ替わりますので、一泊でも異なる趣向が楽しめますよ。残念ながら写真には収めてきませんでしたので掲載が出来ないの。気になる方は同館のHP 岩本楼 を御参照下さいね。

ローマ風呂は天井がドーム型に造られ、窓のガラスもステンドグラスになっているの。テラコッタ(陶板)で飾られた浴室は高貴な方が湯浴みするに相応しい装いよ。皇帝のお妃さまにでもなった積もりで御入浴下さいね。因みに、このローマ風呂は昭和5年(1930)に造られたものですが、現在は国の有形文化財に登録されているの。国の文化財に入浴出来るなんて、日本全国広しと雖もそう多くはないわね。その湯に浸かればあなたのお肌も国宝級の美肌になるかも・・・

そのローマ風呂が優雅に湯浴みする浴室なら、弁天洞窟風呂はその名の如く野趣溢れる洞窟風呂になっているの。湯浴みすると云うよりも、洞窟内の探検気分が味わえるの。ところでこの洞窟風呂、嘗ては土牢だったと云うの。寺を廃業して旅館を開業すると、その土牢も掘り進められて現在のような規模のものとなり、戦前には野菜などの貯蔵施設として利用されていたと云うの。それが昭和61年(1986)に弁天洞窟風呂として生まれ変わったの。

洞窟が土牢として使われていたのは岩本院だった頃のことね。お寺なのに何で土牢があったの?誰を閉じ込めたの?当時の岩本院は女人禁制だったことから稚児が給仕に当たっていたのですが、実は、その稚児が悪さをしていたの。当時は賭博が漁師の間で広く行われ、大人達の影響を多分に受けていたのでしょうね、稚児達の間でも行われていたの。最初の頃は賽銭を盗むなど軽微なものでしたが、賭金欲しさに宿泊客の枕探しをするようになったの。それでも盗難にあった方も弁財天への喜捨と考えて余り大事にはしなかったの。ですが、そこは稚児と賭博の組み合わせ。段々エスカレートして大金をくすねるようになるの。

悪事が露顕した稚児は牢屋に閉じ込められ、それでも懲りずに盗みを繰り返す稚児は島外へ追放されたの。そんな稚児の活躍(笑)を題材に歌舞伎狂言として纏めたのが御存知、弁天小僧こと弁天娘女男白波(べんてんむすめめおのしらなみ)なの。近松門左衛門、鶴屋南北と並び称される河竹黙阿弥の作で、実際の物語は五幕九場と長丁場なのですが、有名なのが女装を見破られて弁天小僧が啖呵を切る場面。長くなった序でに紹介してみますが、掛詞や語呂合わせが多用され、当時の習俗も折り込まれていますので理解するのが大変なの。理解するしないは後にして、先ずは七五調の韻を楽しみながら御読み下さいね。出来れば歌舞伎役者になりきり、声を出して読まれることをお奨めしますね。では、舞台中央にお出まし下さいね。

知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が 歌に残せし盗人の 種は尽きねえ七里ヶ浜
その白浪の夜働き 以前を云やあ江の島で 年季勤めの稚児ヶ淵
江戸の百味講で散らす蒔銭を 当てに小皿の一文子
百が二百と賽銭の くすね銭せえ段々に 悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の 枕捜しも度重なり お手長講を札附きに
とうとう島を追い出され それから若衆の美人局 こゝや彼処の寺島で
小耳に聞いた音羽屋の 似ぬ声色で小ゆすりたかり
名せえ由縁の 弁天小僧菊之助たあ 俺がことさ

如何でした?楽しんで頂けましたでしょうか。
余韻に浸るところを恐縮ですが、何を云ってんだか意味が全然わかんな〜い−と云うあなたに、少し補足してみますね。

・浜の真砂
かの有名な石川五右衛門の辞世の句を踏襲したもの。
石川や 浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽きまじ
・七里ヶ浜
その尽きぬ様子を七里ヶ浜の砂に譬えた掛詞ね。
・白浪
泥棒のこと。これで題名の弁天娘女男白波の意味が分かりますよね。
中国・後漢書に記される盗賊団の白波賊を踏まえ、七里ヶ浜の白波に掛けているの。
・稚児ヶ淵
云うまでも無く、稚児と景勝地の稚児ヶ淵の掛詞ね。
・百味講
江の島詣は講を組織して行われることが多く、とりわけ百味講が活発だったの。
講名は百種類の美味・珍味を弁財天に献ずることを旨としたことに因むの。
・一文字
稚児達が行った小博打のこと。一文銭を掛けたことに由来するの。
・上の宮
中津宮のこと。直前の「のぼる」とは掛詞になり、韻を踏んでいるの。
・枕捜し
宿泊客が寝静まったのを見計らい、枕の下の金品を盗むこと。
・手長講
手が長い−は手癖の悪い者で、盗人のこと。講になぞらえた表現ね。
・美人局
「つつもたせ」と訓んで下さいね。元々は博徒の隠語で筒持たせの意。
転じて妻や愛人に他の男を誘惑させておいて因縁をつけ金品をゆすること。
美人局の表記は中国の故事に由来するの。
・寺島
三代目・尾上菊五郎が住んでいた向島寺島町(現:墨田区東向島)のこと。
後に寺島姓を名乗るのはこの地名に由来するの。島にある寺−で江島寺とも掛けているの。
・音羽屋
舞台では「とっつぁん」と読み上げていますが、音羽屋は尾上家の屋号なの。
初代・菊五郎の父親が音羽屋半七と名乗っていたことに由来するの。
・菊之助
菊五郎の襲名前の名前と掛けているの。

弁天洞窟風呂の紹介がとんでもないことになってしまいましたね。ごめんなさい。洞窟風呂の奥行は20m程あり、二股に分かれた最奥部には弁財天が祀られているの。ちゃんと参道もあるのよ。でも弁財天が女神さまで良かった。不動明王あたりが祀られていたらちょっと恥ずかしいものね。(笑)

夕食 夕食 夕食

さて、湯浴みを終えて部屋の窓辺に設けられた椅子に座りながら街明かりを眺めていると、お待ちかねの夕食よ。こちらは食膳に並べられた料理の数々。ここでは特別なものは依頼していませんので御安心下さいね。TVの旅番組で料理の豪華さにつられて出掛けてみたら特別料理で、追加料金を余儀無くされた−と云うケースもありますよね。因みに、この時の宿泊料金は税込みの休前日料金で¥16,380。但し、季節や人数などにより変動しますので参考程度にして下さいね。この頁を御覧になり、宿泊してみたいな−と思われた方は前掲の 岩本楼 を御参照下さいね。念の為に申し添えて置きますが、ξ^_^ξは同館とはいかなる関係もありません(笑)。

今回の散策は江の島島内に的を絞り紹介してみましたが、江の島だけじゃなくて周囲の見処も併せて観て廻りたいの−と云うあなたには いつでもおいでよ!藤沢市・湘南江の島「藤沢観光」 がお薦め。藤沢市内の観光情報は勿論、宿泊情報も掲載されていますので、あなたなりの素敵な旅を見つけて下さいね。気の向く儘に書き始めた此度の散策記ですが、次々に湧き起る疑問に応えている内に自己増殖を始めてしまって。なので自己満足この上ない誌面となっていますがお許し下さいね。


鎌倉時代に源頼朝の意を受けて文覚上人が弁才天をこの地に勧請したことに始まる江の島の弁才天信仰ですが、時代を経て形態や内容を変えてゆくの。一方で過去への溯上も行われたことから、弁才天が辿る道程は遠大な叙事詩にもなっているの。八臂の弁才天が裸弁財天に象徴される妙音弁財天に再び戻りゆく姿はサラスバティ Sarasvati の再来と云ったところかしら。その妙なる調べに耳を傾ける時、あなたの心の中にもきっと福運が訪れていることでしょうね。穏やかな一日をあなたも江の島に弁財天を訪ねてみてはいかがかしら。五色の雲があなたを出迎えてくれるかも知れませんよ。それでは、あなたの旅も素敵でありますように‥‥‥

御感想や記載内容の誤りなど、お気付きの点がありましたら
webmaster@myluxurynight.com まで御連絡下さいね。

〔 参考文献 〕
東京堂出版社刊 神話伝説辞典
かまくら春秋社刊 鎌倉の寺小事典
かまくら春秋社刊 鎌倉の神社小事典
東京堂出版社刊 白井永二編 鎌倉事典
吉川弘文館社刊 佐和隆研編 仏像案内
北辰堂社刊 芦田正次郎著 動物信仰事典
掘書店刊 安津素彦 梅田義彦 監修 神道辞典
至文社刊 日本歴史新書 大野達之助著 日本の仏教
角川書店社刊 角川選書 田村芳朗著 日本仏教史入門
実業之日本社刊 三浦勝男監修 楠本勝治著 鎌倉なるほど事典
日本放送出版協会刊 佐和隆研著 日本密教−その展開と美術-
日本放送出版協会刊 望月信成・佐和隆研・梅原猛著 続 仏像 心とかたち
岩波書店刊 日本古典文学大系 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 日本書紀
新紀元社刊 戸部民夫著 八百万の神々−日本の神霊たちのプロフィール−
岩波書店刊 日本古典文学大系 倉野憲司 武田祐吉 校注 古事記・祝詞
雄山閣出版社刊 石田茂作監修 新版仏教考古学講座 第三巻 塔・塔婆
新紀元社刊 戸部民夫著 日本の神々−多彩な民俗神たち−
雄山閣出版社刊 民衆宗教史叢書 小花波平六編 庚申信仰
講談社学術文庫 和田英松著 所功校訂 新訂 官職要解
角川書店社刊 上垣外憲一著 空海と霊界めぐり伝説
江ノ電沿線新聞社刊 中山成彬著 江の島と歌舞伎
雄山閣出版社刊 笹間良彦著 弁財天信仰と俗信
昭文社刊 上撰の旅11 鎌倉・湘南・三浦半島
新人物往来社刊 奥富敬之著 鎌倉歴史散歩
岩波書店社刊 玉井幸助校訂 問はず語り
みずうみ書房社刊 日本伝説体系 第五巻
岩波書店社刊 龍肅訳注 吾妻鏡(1)-(5)
塙書房社刊 村山修一著 山伏の歴史
角川書店社刊 五来重著 仏教と民俗
藤沢市観光協会発行 江の島イラストマップ
その他、現地にて頂いてきたパンフ、栞など






どこにもいけないわ