≡☆ 音楽寺 ☆≡
2020/03/06

観梅を終えたところで、帰宅時間には余裕がありましたので、近くにある秩父札所第23番の音楽寺を訪ねてみたの。尚、掲載する画像は幾れも拡大表示が可能よ。気になる画像がありましたらクリックしてみて下さいね。

音楽寺

1. 参詣路 さんけいみち

音楽寺へは「四季の百花園」入口脇の駐車場を抜けて向かいますが、途中からは御覧のような展望が開けるの。周囲を山に囲まれて市街地が広がる様子が良く分かるわよね。中央にすっくと立つのは荒川に架かる秩父公園橋で、視線を右に転ずると秩父の象徴・武甲山も見えてくるの。

2. 音楽寺 おんがくじ

〔 市指定史跡 札所23番 松風山音楽寺 〕  この札所は、秩父地方屈指の景観地にあります。観音堂は三間四面吹き寄せ二重垂木、向拝はありませんが、江戸中期の大きな堂です。内陣には唐様の須弥壇に立派な厨子を安置しています。本尊聖観世音は一木造り檜材で、像高81糎、室町時代の作です。梵鐘も明和5年(1768)の銘が昭和32年(1957)2月、市指定の文化財になっています。明治17年(1884)田代栄助を総理とする秩父事件の群衆もこの鐘を鳴らして秩父町に崩れこんだという逸話も残っています。天長年間(824-834)の昔、慈覚大師は関東霊地開拓の折、この地の優れたるに感じ、聖観世音像を安置し、山路を開きたもうとき、数多くの小鹿現れて大師を案内せしめたため、小鹿坂の地名となったと云う縁起があります。昭和40年(1965)1月25日 秩父市教育委員会指定

参道の両脇には数年前までは参詣客に飲食を提供していた、また、宿泊施設であったと思われるような建物も残されていましたが、嘗てはそれだけ多くの人達が訪れていた証でもあるわね。右手には樹齢を重ねた梅の木がありましたが、その佇まいは正に時代の生き証人の風情で、山路を登り来た札所めぐりの旅人の労をねぎらい、優しく見守ってきたのでしょうね。

本堂に参拝・合掌したところで高台にある観音堂へ向かうべく左手に続く道を辿りましたが、途中には赤い鳥居が建てられ、稲荷社が祀られていたの。その先に観音堂への石段があるの。

六地蔵 手水舎 観音堂 観音堂

石段を登ると正面には観音堂が、左手には六地蔵と手水舎が並び建てられているの。

ねえねえ、どうしてお地蔵さんが六体もあるの?何か特別な意味があるの? あるなんてものじゃないわ。六体じゃないとダメなの。 ねえねえ、どうしてダメなの? それを説明するにはお地蔵さんのことから話さなくてはいけないわね。

親しみを込めてお地蔵さんと呼ばれているけど、本当は地蔵菩薩ね。地蔵菩薩はお釈迦さまが入滅してから56億7千万年後に弥勒菩薩が現れる迄の無仏期間に現れて衆生を艱難辛苦から救って下さると云う有り難い仏さまなの。それに、他の菩薩が高所から慈悲の手を差し伸べるのに対し、地蔵菩薩はξ^_^ξ達衆生の廻りに自ら降り立ち、救済してくれると云うの。そんなことから身近な仏さまとして極めて現世利益的な信仰対象になっていくの。各地に残されている身代わり地蔵などはその典型ね。

仏教では生前の行いの善悪に応じて死後に送られる世界が六つあると説いているの。それが六道と云われるもので、地獄と天の間にも餓鬼・畜生・修羅・人があるの。お地蔵さまは我が身を六つに分かちて六道の辻に立ち、迷える衆生を艱難辛苦から守って下さると信じられるようになると、人々は寺院の門前や墓地などに六地蔵を祀るようになったの。そこはこの世とあの世を結ぶ結界の地でもあり、村境などは異界に通ずる出入り口として同じく祀られるようになるの。譬え罪人でも我が身に代えて責苦から救い出して下さると云う有り難いお地蔵さま。気付かない内に罪を犯してしまうのが人間ですので、六地蔵を見る機会がありましたら頭を垂れて死後の安穏を祈願し、善行を心掛けましょうね。

〔 手水舎の龍神 〕  龍神さまは龍王さまとも云われ、仏法守護の八部衆の一人として崇められています。また、神秘の力を以て雲を起こし、雨を呼ぶ水神さまとしても信仰されています。この故以をもって、水屋にも龍神の石像を祀りました。お手を清められ、南無観音 お詣りしましょう 三宝

替わって、右手には「臥龍の松」を思わせるような佇まいの御影松(県指定天然記念物)が枝を伸ばしていたの。傍らには「われら秩父困民党、暴徒と呼ばれ、暴動と云われることを拒否しない」と刻まれた「秩父困民党無名戦士の墓」が建てられていたの。略縁起の中でも触れられていた秩父事件に因むもので、お墓と云うよりも供養塔なのですが、併せて顕彰碑も建てられていましたので、その碑文を引いておきますね。尚、秩父事件のことが知りたい方は秩父観光協会の ぶらっとちちぶ を御参照下さいね。

この墓は、日本の近代民衆史上、誰の手によっても決して消し去ることのできない秩父困民党の、多くの無名戦士とその斗を、正しく復権顕彰するために、秩父をはじめ、日本全国の心ある人々の力によって建立された。吾々は債鬼の強迫をのがれ、家に老幼をおき、山野を放浪するまでに貧困の極に達した秩父の農民を救うため、高利貸、警察、郡役所、そして、時の明治政府に対して、自らののもつ実力で立ち向かった秩父困民党と、秩父の多くの農民戦士のことを忘れない。常にその斗いの先頭に立ち、自らのため、秩父の貧しきもののため、日本中の虐げられし人々のため、その力と連帯を信じて、人知れず斗い倒れていった多くの無名戦士のことを、決して忘れない。誇り高き秩父の農民と、そして、秩父困民党の無名戦士たちに栄光あれ 昭和53年(1978)12月2日建立 秩父困民党決起百年記念会事業委員会

御影松に続いて鐘楼があるの。架けられている梵鐘は明和5年(1768)の銘を刻み、略縁起にも記されているように、秩父事件の際には行軍出発の鬨を告げる銅鑼として使われたの。鐘は衝くことが出来ますので、その音色を追体験してみて下さいね。But 銅鑼代わりの真似をしちゃダメよ。秩父事件で多くの血と汗と涙を流した人々の魂が安らかたらん−と、乃至法界平等利益(合掌)の心境で靜かに撞いて下さいね。

観音堂右手の回縁に置かれた掲示板にはヒット祈願に訪れた歌手の方々をはじめ、音楽関係に携わる人達が千社札代わりに貼っていったポスターや名刺などが留められていたの。替わって、目を引いたのが御覧の奉納額絵で、 四国遍路と百観音霊場を歩く−古寺巡礼 に依ると、地元・秩父の提灯屋さんの女将・浅賀三千子さんが昭和63年(1988)から25年の年月を掛けて描いた34枚の額絵の中の一つで、同じように他の秩父札所にも奉納されているのだとか。額絵は歌川広重・豊国・国貞 画、万亭応賀 誌の【観音霊験記】の錦絵を模写したもので、音楽寺の霊験譚「畠山基国の家来・内山源蔵」が描かれているの。鎧姿の武士が内山源蔵で、左手に描かれている女性は源蔵の母親とされ、奉納額絵には「内山源蔵は老母より音楽寺の守仏の御影を懐中に入れ出陣し勝利を得、後に出家して観音を供養したと云う」とあるの。折角ですので、万亭応賀が記した御本家の霊験譚を紹介しておきますが、興味のない方は読み飛ばして下さいね。

当山は慈覚大師此処に堂宇を建給ふ時、余多の小男鹿来りて道の案内をせしゆへ小鹿坂といへり
とうざんはじかくだいしこのところにどううをたてたまふとき、あまたのこおじかきたりてみちのあないをせしゆへおがさかといへり
誠に絶景の地にて霊験も又あまたあるなかに、畠山基国の家来内山源蔵は観音をよく信じける
まことにぜっけいのちにてれいけんもまたあまたあるなかに、はたけやまもとくにのけらいうちやまげんぞうはかんのんをよくしんじける
時に、大内介義弘の討手を基国命ぜられければ、源蔵も出陣の役にあたり武門の面目とはいひながら
ときに、おおこうちのすけよしひろのうつてをもとくにめいぜられければ、げんぞうもしゅつじんのやくにあたりぶもんのめんぼくとはいひながら
七十にちかき老母に離ることを深くなげきければ、老母はこれをいさめていふやう
ななじゅうにちかきろうばにはなることをふかくなげきければ、ろうばはこれをいさめていふやう
此守仏は秩父音楽寺の御影なり、これを懐中して、母をおもふときは南無大慈大悲と唱へよ
このまもりぼとけはちちぶおんがくじのみえいなり、これをかいちゅうして、ははをおもふときはなむだいじだいひととなへよ
必ず勝利あるべしと渡しければ、よろこびて兜のうちにおさめ出陣せし処
かならずしょうりあるべしとわたしければ、よろこびてかぶとのうちにおさめしゅつじんせしところ
この守のおかげにや、危き矢さき剱先をのがれ、終に義弘敗軍におよび
このまもりのおかげにや、あやうきやさきけんさきをのがれ、ついによしひろはいぐんにおよび
基国勝利を得て凱陣のうへにて、源蔵は功成名とげて身を退き
もとくにしょうりをえてがいじんのうへにて、げんぞうはこうなりなとげてみをしりぞき
母もろともに出家となりて観音を供養せしに、なを霊験を蒙れりとなり
ははもろともにしゅっけとなりてかんのんをくようせしに、なおれいけんをこうむれりとなり

観音堂の背後から続く小径を登り、少し歩くとお地蔵さんが並ぶ塚が見えてくるの。それが秩父札所を開設したと云う十三権者の石像で、13体の石像が並び立てられているの。左掲の未舗装の小径は江戸巡礼古道(長尾根みち)に通じていて、嘗ては札所めぐりの人達が往来するメインストリートだったみたいね。

〔 秩父札所を開設した十三権者の石像 〕  文暦元年(1234)、妙見大菩薩・蔵王権現・善光寺如来・熊野権現・閻魔大王・倶生神・花山法皇・白河法皇・徳道上人・性空上人・医王上人・良忠上人・通観法印の13人の権者が秩父札所を開設したときに、この地の松風の音を聞き、菩薩の音楽と感じたので、山号を松風山、寺名を音楽寺としたのである。

神仏と実在の人物が入り乱れていて支離滅裂状態(荒唐無稽とも)ですが、最初の六権者からは当時の人々の信仰模様が窺えるわね。最後に、山号寺号の由来が分かったところで音楽寺の拝観も終了よ。お疲れさまでした。






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