奈良・東大寺の大仏や、鎌倉にある高徳院の鎌倉大仏は、広く海外にも紹介されるほど有名ですが、東京にもチャンと大仏さまが鎮座していたの。他の頁を作成中にその存在を知り得たのですが、大きさにしても完成当時は奈良や鎌倉に次ぐものだったと云うのですから、御尊顔を拝さずに済ませてしまう訳にはいきませんよね。いざ訪ねてみると、東京大仏が鎮座する赤塚は街並みの中に今でも武蔵野の面影を残し、歴史の香りを漂わせていたの。補:一部の画像は拡大表示が可能よ。見分け方はカ〜ンタン。
1.東武練馬駅 とうぶねりまえき 10:12着発
池袋駅からは東武東上線の各駅停車に乗車しても12分足らず。と云っても各駅停車以外は停まりませんので、準急や急行には乗らないで下さいね。どちらも池袋を出ると次に停まる駅は成増ですので、乗車してから気付いても手遅れになってしまうの。その時は成増側から逆コースを歩くと云う手もあるわね。赤塚は地下鉄・都営三田線の高島平〜新高島平〜西高島平駅と、この東武東上線の東武練馬〜下赤塚〜成増駅に挟まれていますので色々なアプローチが可能なのですが、今回は東武練馬駅を基点にして主な見処の完全制覇(笑)を試みてみたの。
2.前谷津川緑道 まえやつかわりょくどう 10:29着発
しばらく歩くと道の左右に桜並木が続く緑道が見えて来ますので、下の道へ降りて下さいね。嘗ては前谷津川が流れていたのですが、今は緑道として整備され、地元の方々の散歩道にもなっているの。左掲は緑道に降りて徳丸通りをくぐるトンネルをかえりみたものですが、画面左手が東武練馬駅方面になるの。画面の右端にちょっとだけ写りますが、トンネルを渡りきると階段がありますので、それを伝い降りて下さいね。
そのトンネルからは100m位かしら、今度はこの四つ角に注意して下さいね。角に床屋さんの例のクルクル回るヤツ(何て云うの?)が立てられていますので、直ぐ分かると思うの。でも、営業中の時ならいいけど、お休みの際には店内にしまわれてしまうかも知れないわね。今にして思えば周囲の景観を含めて撮してくれば良かったかしら。と云ってみたところで After the carnival ね。その角を曲がると見えてくるのがこの路地裏の景観よ。ですが、ちゃんとした街並みですので、路地裏と云っては住む方々に怒られてしまうわね。
3.天神坂 てんじんざか 10:33着発
4.北野神社 きたのじんじゃ 10:36着 10:57発
天神坂を登り切ると車道を挟んで鳥居が木立ちの中に見えて来るの。その鳥居をくぐり抜けて更に参道を進みますが、傍らには山王社や徳丸出羽三山神社の小社もあり、徳丸村講中に依る三祀聖霊碑なども建つの。碑には月山・湯殿山・羽黒山の文字を刻み、銘には天保13年(1842)建立とありますので、江戸時代にはこの徳丸村でも修験道霊地・出羽三山への信仰が盛んだったことを窺わせるの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
そこで、時平は讒言誹謗の限りを尽くし、遂に醍醐天皇に道真左遷の宣命を出させてしまうの。それを知らされた宇多法王は醍醐天皇に処分撤回を促すために内裏へと向かうのですが、警護の者達に阻止されてしまうの。醍醐天皇にしても、時平の讒言が功を奏して−お父さんは道真に騙されてるんだよ。アイツは身分が低い家柄のくせに、お父さんが引き立ててくれたのを良いことに自分の思うとおりに政(まつりごと)をしようとする、とんでもないヤツだ。最近ではボクの代わりに斉世親王を天皇に擁立して、お父さんばかりでなく、ボクと弟も仲違いさせようとしていると云うじゃないか。お父さんもお父さんだよ、そんな道真を擁護するなんて。アイツは太宰府にでも左遷した方がいいんだ。ボクは会う気は無いからね、お父さん!−と云ったところね。
加えて、清涼殿に雷は落ちるわ、都には大音量と共に隕石が落下するなどの天変地異も重なり、そのいずれもが道真の怨霊の仕業とされ、道真の祟りじゃ、祟りじゃあ〜!と、それはそれは大変だったの。醍醐天皇周辺にしても、延長元年(923)には皇太子の保明親王が21歳で早世してしまい、道真の怨霊の仕業とされたの。その恨みの深さにおののいた醍醐天皇は、直ぐさま道真の左遷を解き、右大臣の地位に戻して正二位の位を与えたのですが、時既に遅しで、道真の祟りは収まる気配が無かったの。
延長8年(930)には前述の清涼殿への落雷があり、大納言の藤原清貫が雷の直撃を受けて死亡しているの。道真の怨霊の仕業とされたのは当然よね。醍醐天皇にしてもその祟りに恐れおののき出家、譲位するのですが、落雷から僅か三月程して薨去しまうの。時を経て道真の、京の都に住みた〜い!との託宣を得た近江の神官達が、現在地に社殿を造営して天満天神として崇め祀るのですが、その霊威を畏怖していた天皇や貴族達はこぞって奉幣したの。それが北野天満宮で、道真が太宰府で非業の死を遂げてから44年目のことよ。
道真公と梅の木には紹介したように深〜い繋がりがあるのですが、梅や桃の実には古来から悪神や疫病を退散させる霊威が宿ると信じられてもいたみたいね。ところで、徳丸の地名ですが、菅原道真の子供の名に由来すると云う伝承があるの。道真公が左遷されると一族も同じような運命を辿るのですが、子供の一人・徳麻呂は密かに都を抜け出してこの地に逃れ来たと云うの。その徳麻呂が住したところとして、後に徳丸に転じたとされているのですが、真偽の程はみなさんの御賢察にお任せよ。
境内の一角には御覧の石碑が建てられていますが「北野神社田遊び」と刻むだけで、これでは何のこっちゃ?よね。最初にこれを見たξ^_^ξは田圃での泥んこ遊びを想像してしまったの。無形民俗文化財になりうる泥んこ遊びとはいったいどんな遊びなの?状態でしたが、無知・無教養のなせるワザね。
この田遊びですが、その年の五穀豊穣や子孫繁栄を祈願して執り行われる神事で、一年の稲作作業を唄と所作で表して田の神さまを崇め慰める行事なの。お祭りと云えば収穫を終えて田の神さまに感謝する秋祭りが普通ですが、田遊びは予祝のお祭りなの。田の神さまに楽しんで貰い、機嫌が良くなったところで田植えの準備を始めようと云うわけ。田の神さまが機嫌良ければ豊作は間違いないもの。演じられる舞の中にはちょっとHな動作もあるけど、子孫繁栄の願いと共に、田の神さまに対するサービスかもね。
ここでは田の神さまと一人称を用いましたが、本当は精霊達と云った方が良いのかも知れないわね。豊作をもたらしてくれる善き精霊達を田に呼び込む一方で、豊作を邪魔する精霊達へは鎮魂の思いを込める神事でもあるの。この田遊びはこの北野神社の他にも大門諏訪神社にも伝えられ、今では廃れてしまったみたいですが、後半に御案内する赤塚氷川神社でも行われていたみたいね。中でもこの北野神社のそれは、創建時に神慮を安んじて農夫が演じた舞を起源としていると伝えているの。と云うことは、平安時代から鎌倉時代にかけて流行した田楽舞にそのルーツがあるようね。田楽にしても、田植えの際に田の神さまを奉じて笛や太鼓を鳴らしながら歌い舞い踊る田舞に始まるの。因みに、北野神社の田遊び神事は昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されているの。
5.郷土芸能伝承館 きょうどげいのうでんしょうかん 10:58着 11:02発
北野神社の境内に接するようにして建つのが郷土芸能伝承館。その施設名から田遊びなどの郷土芸能の様子がパネル展示されているかも知れないわ、ひょっとしたら映像で観ることが出来るかも−と期待して訪ねてみたのですが、同施設は一般の方はお呼びではないようね。と云うのも、伝承館と称するように、郷土芸能の練習場になっているの。代わりに、ここでは御覧の桃の花を観賞して終えました。梅と桃の花を同時に見られるなんて、これも天神さまの御神威ゆえのものかも知れないわね。
6.爽風庵・槇 そうふうあん・まき 11:11着 11:40発
時代に取り残されてしまったかのような佇まいから、よもやHPなどと云う代物があるわけはないわよね−と勝手に想像したのですが、見事に裏切られました(笑)。頁には店内の様子なども掲載されていますので御参照下さいね。この雰囲気の中で口にするお蕎麦は格別の味わいよ。老婆心ながら申し添えておきますが、蕎麦いなりはサイドメニューとして御賞味下さいね。メインとするにはさすがに量が少な過ぎて。
紹介したHPですが、残念ながら閉鎖されてしまったみたいなの。
But グルメ・サイトに情報が寄せられていますので、検索してみて下さいね。
7.茅葺き屋根の家 かやぶきやねのいえ 11:41着発
御案内した爽風庵・槙とは同じ敷地内に建つ古民家で、茅葺き屋根のものとしては板橋区内に残される二軒の内の一つとして貴重な建物なの。残念ながら「現在も居住・生活されておりますので立ち入りは御遠慮下さい」とのことですので、生垣越しにちょこっと垣間見ただけで終えています。詳しい紹介が出来ませんので、ここでは板橋区教育委員会が立てた案内板の解説を引用させて頂きますね。
粕谷尹久子(かすやいくこ)家住宅 付(つけたり)宅地
粕谷尹久子家は伝承によると享保11年(1726)以前に徳丸脇村名主粕谷家から隠居したことに始まります。この家屋は桁行17.17m、梁行10.95m、寄棟造り、茅葺きです。正確な建造年代は棟札が存在しないため不明ですが、最初に建築した時の材が良く残っています。そしてそれらの材に残された痕跡からこの住宅の建築当初の平面形を復原すると江戸時代後期の関東地方の典型的な農家形式になります。現在、区内に残っている茅葺きの民家は二軒のみで、建築当初の位置を保っているのはこの住宅だけです。また、敷地は土地区画整理事業などによって旧来の範囲とは異なっていますが、なお屋敷庭として整備されており、家屋と一体で昔日の農村風景の一部を醸し出しています。当住宅は板橋区の歴史、文化に極めて関係が深く、歴史的・学術的に価値が高いので平成15年(2003)12月、板橋区の文化財として指定しました。平成16年(2004)3月 板橋区教育委員会
8.安楽寺 あんらくじ 11:45着 11:52発
寺伝に依ると、安楽寺は室町時代の応永3年(1396)に尊栄上人が開基開山したものとされ、現在は紅梅山来迎院安楽寺を正式な山号寺号とする真言宗智山派の寺院。秘仏とされる本尊の阿弥陀如来立像は、【新編武蔵風土記稿】では伝聖徳太子作と紹介されているのですが、さすがにそれはマユツバもののような気がするわね。一方で、当寺に安置される聖観音菩薩像は鎌倉期末〜南北朝期の作とされ、板橋区内最古の仏像に比定されているのですが、元々は近在にあった観音寺(明治29年(1896)に安楽寺と合併)に祀られていたものみたいね。
ところで、寺号の安楽寺ですが、先程紹介した北野神社とは深〜い繋がりがあるの。菅原道真は太宰府への左遷から僅か二年足らずで失意の内に亡くなるの。【北野天神縁起絵巻】には道真の亡骸を運ぶ牛車の牛がその場に立ち止まると一歩も動こうとしなくなったことから、道真公の遺言に従い、その場所を墓所にして埋葬する様子が描かれているのですが、延喜5年(905)には道真に従い下向して来た門人の味酒安行(うまさけのやすゆき)がその廟所に社殿を造営したの。それが太宰府天満宮の前身となる安楽寺なの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
道真の死後も、その怨霊に悩まされた醍醐天皇は道真に天満大自在天神の称号を与え、その廟所を聖廟として崇めたの。後に、左大臣・藤原仲平を太宰府に下向させて神宮寺の造営を完成させたの。意外に思われるかも知れませんが、当時は神仏習合ですから寺院と神社の区別が無い神宮寺の状態ね。江戸時代になり、天神信仰が隆盛すると、脚光を浴びて道真公も大いに姿を変え、明治期の神仏分離(廃仏毀釈)を受けて現在の太宰府天満宮になったの。と云うことで、寺号の安楽寺は御本家の草創期の呼称に因むものなの。
9.水車公園 すいしゃこうえん 12:08着 12:18発
その前谷津川も、周辺の宅地化に伴い、昭和59年(1984)には暗渠になってしまい、その流路跡に造られたのが前谷津川緑道と云うわけ。天神坂の手前で桜並木が続く歩道がありましたが、その緑道の一部だったわけね。緑道はやがて地下鉄・都営三田線の高島平駅の近くを通り、熱帯環境植物館の傍らを経て新河岸川を終端としているの。緑道にはベンチなども置かれて小休憩も出来るようになっていますので、軽い運動を兼ねたお散歩には最適のコースね。
その前谷津川の暗渠化に伴い、昭和60年(1985)に開園されたのがこの水車公園ですが、江戸時代から昭和の初め頃迄はこの前谷津川に限らず、川の流れを利用した水車小屋があちらこちらに点在していたみたいね。今ではその姿を見かける機会は殆ど無くなりましたが、有名なところでは福岡県朝倉市菱野にある三連水車が挙げられますが、嘗てはこの板橋の地(下板橋)でも輪径約5mにも及ぶ関東随一の水車が回っていたと云うの。水車は流れる水量に影響を受けると云うきらいはあるものの、自然の力を利用した、環境にはとても優しい動力源よね。轟音と共に高速で回転するタービンとは違い、ゆったりとした時間の中で回る水車を見ていると、同じようにゆっくりとした時を刻むξ^_^ξがいるの。流れ落ちる水音は心地良いBGMね。
ここでξ^_^ξがちょっと気になった物体(建造物?)を紹介してみますね。公園内にあったものですが、最初にこれを見かけた時には、このデンデン虫みたいな形をした物体は何なの?状態。公園と云うことで、子供達が戯れるための遊具施設ならぬオブジェの類かしら?とも想像してみたのですが、何と、炭焼き窯だったの。
10.大堂 たいどう 12:34着 12:46発
境内には僅かに本堂と鐘楼のみが建つだけの荒れ寺と云うか殆ど廃寺の様相ですが、嘗ては七堂伽藍を備えて、12の脇坊を有する大寺だったの。平安時代初期の大同年間(806-808)の創建と伝えられ、板橋区内では最古刹になるの。当初の伽藍構成は不明ですが、梵鐘の銘文には南北朝時代の建武延元年間(1334-40)には七堂伽藍を備えた大寺としての隆盛が記されているの。それが何でこうなってしまったかと云うと、その大きさが災いしたの。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
永禄4年(1561)、長尾景虎こと上杉謙信が小田原北条氏を攻める際にこの辺りで敵勢と対峙することになり、伽藍が続くことから敵勢が物陰に潜んで待ち伏せするかも知れぬと、堂宇の悉くが焼き払われてしまったの。その後は再建されることも無く、庵室ありて道心一人守れり【遊歴雑記】などの状態が続き、いつ頃のことかは不明ですが、この後に紹介する松月院の管理下になるの。現在残されている本堂(阿弥陀堂)と鐘楼は元禄17年(1704)に再建されたものですが、大堂の呼称はそんな歴史的背景故のものだったのね。
それは、その重さに耐えきれずに今にも倒れてしまいそうな鐘楼に架かる釣鐘よ。この大堂が廃寺の佇まいながらも今日迄残されたのは、ひとえにこの梵鐘のお陰ではないかしら。現在は国重要美術品にも指定される梵鐘ですが、暦應3年(1340)の銘を持ち、鎌倉時代の名僧で、鎌倉の建長寺42世住持も務めた中巌円月上人(仏種慧済禅師)の撰文で、その刻銘が天下の名文と評されたことから文人墨客ら風流人の垂涎の的となり、江戸時代には市中から多くの参詣客を集めたと云うの。
補足ですが、平成23年(2011)に近くまで出掛ける機会があり、足を伸ばして訪ねてみたところ、紹介した鐘楼が新しく建て替えられていたの。新築されたのがいつのことなのかは分かりませんが、それでも昨日今日のことではないわね。最初に訪ねたのは平成19年(2007)のことですが、案外時を経ずして建て直されていたのかも知れないわね。松月院さんの名誉のためにもここで新しくなった鐘楼の画像をアップ(クリックで拡大表示も可能よ)しておきますね。But 記載内容に関しては当時のままとさせて頂きますので御了承下さいね。
となると、銘文の内容が大いに気になるところですが、サービス精神旺盛なξ^_^ξが皆さんの期待にお応えしてみますね。エッ?そんなの、誰も期待しちゃあいねえぜ−ですか?本当は自分が知りたかっただけなのですが、いざ、調べてみると、昔の人は難しいことばをい〜〜っぱい知ってたのね−と云うのが率直な感想ね。超難解な漢字の羅列が続きますので解説を加えてみましたので、興味のある方は引き続きお付き合い下さいね。尚、文中の赤字は表示が不可能なことから代用文字を使用していますので予め御了承下さいね。
武蔵州豊島郡赤塚泉福寺真福寺二寺鐘銘
驚沈潛之幽蟄 破衆生之大夢 莫先於鐘也 武州豐島彼兩寺者 前朝全盛之時所建 具體古招提也
獨缺簨虞之器 可謂缺典矣 今快賢阿闍梨 幹衆縁鑄巨鐘 厥志勤矣
若夫豐嶺霜降 祇園月明 揚音於大千沙界 傳盍於未來無窮 命中右銘 銘曰
武之豐郡 州之重鎭 崇々福山 衷我彦俊
鳧氏范鏞 以落以釁 大扣大鳴 鯨吼霆震
啓昏迪迷 遐邇咸進 劫石有消 洪音無盡
沈潜の幽蟄を驚かし 衆生の大夢を破るは 鐘に先んずるはなきなり
ちんせんのゆうちつをおどろかし しゅじょうのたいむをやぶるは かねにさきんずるはなきなり
武州豊島郡の彼の両寺は 前朝全盛の時に建つるところ 具体の古き招提なり
ぶしゅうとしまこほりのかのりょうじは ぜんちょうぜんせいのときにたつるところ ぐたいのふるきしょうだいなり
独り簨虞之器を欠くは欠典と云ふべし 今、快賢阿闍梨、衆縁を幹として巨鐘を鋳る その志 勤なり
ひとりしゅんきょのうつわをかくはけってんといふべし いまかいけんあじゃり しゅうえんをもととしてきょしょうをいる そのこころざし きんなり
若しその豊嶺に霜降りぬれば 祇園は月明らかに 音は大千沙界に揚ぐる
もしそのほうれいにしもふりぬれば ぎおんはつきあきらかに おとはだいせんさかいにあぐる
益は未来無窮に伝ふ 中岩に命じて銘せしむ 銘に曰く
やくはみらいむきゅうにつたふ ちゅうがんにめいじてめいせしむ めいにいわく
武の豊郡 州の重鎮 崇々たる福山 我が俊彦を衷め
ぶのほうぐん すのじゅうちん そうそうたるふくせん わがしゅんげんをあつめ
鳧氏の范鏞 以て落し 以て釁す 大いに扣ち 大いに鳴る 鯨吼霆震
ふしのはんよう もってらくし もってきんす おおいにうち おおいになる げいこうていしん
昏きを啓き 迷いを迪き 遐邇咸進す 劫石消ゆるとも 洪音は尽くることなし
くらきをひらき まよいをみちびき かじかんしんす こうじゃくきゆるとも こうおんはつくることなし
銘文にある中巌円月上人ですが、その経歴を調べてみると波瀾万丈の生涯だったみたいね。世は鎌倉幕府滅亡から建武の中興を迎えての激動期にあり、単に僧侶と云う立場だけにとどまらず、政治的な発言も強めていったみたいね。その著書【日本書】に至っては、その過激さから発禁処分となってしまう程だったようね。当時の為政者と云えば天皇よね、勿論、直接では無いにしろ、発禁処分の命を下すのはその天皇なのですから、上人の矛先は天皇に向けられていたと云うことなのでしょうね。
その後は徐々に政治活動から離れて教学や漢詩文の創作に傾注するようになるのですが、76歳と云う、当時としては長寿に値する年齢で死寂出来たのは、ひとえに政治的な活動を離れたからかも知れないわね。上人の心中の程はξ^_^ξには分かりませんが、三度諫めて改めざるは之を去るのみーと云ったところかしら。上人の心模様に思いを馳せながら、改めてこの銘文を読み返してみると、同じことばが今度は意味深に思えてくるかも知れないわね。
この大鐘の鋳造に相前後して大堂も最盛期にあり、上下合わせて12坊もの脇坊があったと伝えられているの。中でも銘文中にその名が出てくる泉福寺・真福寺の二寺は、別当として主管的な立場にあったみたいね。残念ながらその真福寺は廃寺となり、泉福寺のみが今に名を伝えているの。その泉福寺にしても無住のことが長く続き、現在のように御住職の方が常駐するようになるのは大正11年(1922)以降のことなの。なので歴史を引き継いで今にある−とは云い難いのでは?と云うのが正直な感想ね。泉福寺の関係者の方々、ゴメンナサイ。m(_ _)m
申し遅れましたが、鐘楼に架かる釣鐘はレプリカで、本物はこの後に紹介する郷土資料館に展示されているの。
やっぱ、モノ本だぜ!と云う方は、その郷土資料館をお訪ね下さいね。
【新編武蔵風土記稿】には「側に古木一株あり 永禄兵火のとき 本尊の阿弥陀 火中より出現して止まる処と云ふ」と紹介されているの。迫り来る猛火の中で阿弥陀如来が八幡神の庇護を求めて欅の木に難を逃れていたなんて、そんな馬鹿な−とも思えるのですが、それでいてどことなく微笑ましくもあるエピソードよね。阿弥陀さまにしたら必死だったのかも知れないけど。
11.松月院 しょうげついん 12:50着 13:05発
赤塚中央通りの坂道を上り切ると松月院前の交差点に出ますが、角地には御覧の松月院の石碑と門柱が建つの。実は、この石碑の建つ辺りが赤塚の地名発祥の地と云われているの。造成整地されて、現在は酒屋さんや松月院の檀信徒会館が建つことから容易には想像出来ないのですが、【江戸名所図会】には塚の上に赤塚明神社が鎮座する様子が描かれているの。塚と云っても実際には古墳だったのではないかとの説もあり、古墳と云えば在地豪族などの有力者のお墓よね。拝観料:境内自由 お賽銭:志納
地元では、あそこン山に生えとる木に触わると手が折れてしまうって云うでねえか−とか、近寄ると祟りがある−と云い伝えられ、村人達は荒れ墓とか荒れ塚と呼び、誰も近づかなかったと云うの。その荒れ塚が後にあかつかに転訛して赤塚の字が充てられるようになったと云われているの。
その赤塚明神は、【新編武蔵風土記稿】では武蔵国豊島郡荒墓郷荒墓神社の名で記載されていますが、村人からは祟り云々と語り継がれていたと云うのですから、お墓の主は非業の死を遂げた貴人だったのかも知れないわね。都ではそれなりの地位にあったものの、故あって異郷とも思えるこの地に配流され、帰京の望みもかなえられることなく生涯を終えたのでは?その罪にしても冤罪だったのかも知れないわね。所謂、貴種流離譚の一種で、嘆きの内に死を迎えた魂は崇め奉られる必要があるの。そうでないと悪疫や災いをもたらす荒神になってしまうと云うわけ。
北野神社の項では、徳丸の地名由来考として菅原道真の子供の徳麻呂に因むとする伝承があることを紹介しましたが、菅原道真の怨霊伝説はまさしく貴種流離譚よね。徳麻呂の伝承にしてもその延長線上にあり、ひょっとしたら塚はその徳麻呂のものだったのではないかしら?と考えるのはξ^_^ξの単なる絵空事ですが、伝承の背景には何か共通する歴史的事実があるような気がしますね。コラコラ、勝手に話しを創るな!(笑)
余談ですが、後程紹介する三遊亭円朝の怪談乳房榎のモデルとされた榎の木が、実は、その荒れ塚にあったみたいなの。その塚も明治25年(1892)の赤塚村役場建設に合わせて整地され、木はその際に薙ぎ倒されてしまったみたいね。建設に先立つ明治22年(1889)には町村制施工に伴い、周辺6ヶ村が合併して新・赤塚村が誕生しているのですが、平成の大合併ならぬ明治政府の新たな施策は、荒れ墓の祟り神もぶっ飛ばしてしまったと云うわけ。一方の乳房榎ですが、新たに逸話の宿木先を見つけて語り継がれているの。
比丘尼の墓塔があると云うことは、比丘尼が住持していたことの証と考えても差し支え無いわよね。比丘尼とは早い話しが尼さんのことよね。けれど、鎌倉時代の寺院、とりわけ禅宗系の寺院では修行の妨げになる!と女人禁制が当たり前だったの。先程紹介した大堂が、嘗ては七堂伽藍を備えた大寺だったことから、その門戸を叩く尼僧がいたとしてもおかしくはないわよね。でも悲しいかな、女人禁制だったの。と云うことで、大堂の境外坊として尼僧専用の宝持寺が建てられたのではないかしら。以上はξ^_^ξの勝手推量ですので、呉々も鵜呑みにはしないで下さいね。だったら書くな!かしら?
ねえねえ、千葉氏は元々は現在の千葉県にいた一族よね。
それが何でこの赤塚に来たの?
歴史的な背景を説明するにはちょっと大変なの。背景となる事件に享徳3年(1454)に古河公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉憲忠を謀殺したことに端を発する享徳の乱があるのですが、その際に下総国の守護を務めていた千葉氏は一族で骨肉を相食む争いになってしまうの。その享徳の乱に先立ち、永享の乱が起きているのですが、全体的な流れを知りたい方は、鎌倉歴史散策−小町・大町編の 別願寺 の項を御笑覧下さいね。
ところで兄の実胤ですが、紆余曲折はあったものの、弟の自胤に較べると性格的に弱かったみたいね。下総に返り咲くことを期待していたのですが、その夢が叶わぬことを知ると、美濃国に落ち延びて隠棲したと伝えられているの。血を分けた兄弟にも関わらず、性格は180度違っていたみたいね。そう云えば足利尊氏と直義の兄弟も両極端でしたね。尤もこの二人は実胤と自胤のそれとはちょっと違う意味でのお話しですが。
この紀功碑は別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で大正11年(1922)12月6日建立された記念碑である。高島秋帆は寛政10年(1798)長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天保11年(1840)、中国清国と英国との間でアヘン戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。天保12年(1841)5月7日から9日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術訓練を公開し、世にその名声を得たが間もなく讒言にあい、永牢に繋がれた。嘉永6年(1853)夏、11年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は江戸幕府の肝入りで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し、幕府或いは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶應2年(1866)正月江戸小石川にて69歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。紀功碑は安政4年(1857)に鋳造された銅製24斤加農砲を碑心に、火焔砲弾4発を配した大理石製の台座に載せた特異な形を取り、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高6m。
その荼枳尼神も古代インドではジャッカルの背に乗る姿で描かれるのですが、中国では似た姿形の狐を使いとしたの。供物にしても、元々はネズミを油で揚げたものだったのですが、仏教では殺生を禁じられていたので、その代用とされたのが油揚げなの。と云うことで、お狐さまも精進料理に替えられてしまったと云うわけ。嘘みたいなホントのお話しよ。
その豊川閣を過ぎると墓苑があるのですが、ξ^_^ξのような脳天気な輩が立ち入る場所では無いわね。栞には松月院を開基した千葉自胤を始めとする武蔵千葉氏一族の墓塔が並び、あの【次郎物語】の作者として知られる下村湖人も眠ると記されていますが、訪ねる際にはその安眠を妨げることの無いようにしてお参りして下さいね。訪ねた時には本堂前の白木蓮が満開の見頃を迎えていましたが、清楚にして華麗な佇まいね。
先程、前・宝持寺のお話しとして了雲比丘尼の墓塔があることを紹介しましたが、比丘尼の生前のお姿を知る由もありませんが、この木蓮にも似た佇まいの女性だったのではないかしら。春の陽射しの中で白木蓮の花を見上げていると、きょうはよくぞお参り下されました。あなたさまにも斉(ひと)しく御仏(みほとけ)の御加護がありますように‥‥‥と語りかけてくる、比丘尼の優しい声が今にも聞こえて来そうよ。
書院を経て境内を一巡りしたところで宝物館の松宝閣に入館してみましたが、館内には千葉自胤の遺品を始めとする千葉氏ゆかりの品々や、徳川家康に始まる徳川幕府歴代将軍の朱印状などが展示されているの。寺院の宝物館ですから仏画や仏具、書画骨董の類が多いのは頷けますが、異彩を放つ展示品が高嶋秋帆ゆかりの品々ね。実物大の大砲こそ無いものの、武器弾薬の類の史料が集められているの。中でもξ^_^ξの一番のお薦めは【西洋火砲打方御見分図】と題された一枚の絵図。徳丸ヶ原(現・高島平)での砲術訓練の様子を描いたものですが、当時の景観を窺い知ることが出来る逸品よ。
ところで、この宝物館ですが、頂いた栞では原則として土日祝日開館とあるのですが、必ずしも拝観出来る訳ではなさそうなの。最初に訪ねた時 ( ′07.03.03 ) には赤塚梅まつりが開催されていたことから特別拝観日となり、拝観料( 一般:¥500 )も無料だったの。加えて、ボランティアの方々に依る展示品の案内もあったのですが、二度目に訪ねた時には開館日の休日にも関わらず閉館状態でした。御利用案内には−団体の方は予め御相談、御予約下さい−とありますが、さて、個人となるとどうなるのかしら。残念ながらHPは未開設のようですので、TELにてお問い合わせ下さいね。松月院 TEL:03-3930-0004
ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、触ると「ひいらぐ」ことからこの由来が出ている。ヒイラギの小枝と鰯の頭を節分の門辺に挿し、鬼の侵入を防ぐという習俗は最近まで見られる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり、丸くなることから人間の成長の過程を象徴するとの説話も残る。松月院のヒイラギは上部の樹冠の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯を持っている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。平成6年度(1994)、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。平成8年(1996)3月 板橋区教育委員会
松月院を後にして、次の目的地・乗蓮寺へと向かいましたが、乗蓮寺の門前を一度通り過ぎて赤塚植物園に足を延ばしてみたの。と云っても僅かに1分足らずですが。次頁ではいよいよ大仏さまに御対面よ。
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